
雨の中元寺川鉄橋を行く9600重連(後藤寺線・船尾ー後藤寺)
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ボロボロになった『SLダイ
ヤ情報』創刊号(1972年) |

SLのグラビア専門誌『蒸気
機関車』終刊号(1981年) |

SLといえばD51、SLについては門外漢であっても、D51(デコイチ)だけは誰でも知っていたようだ。
鉄道通といわれる人たちも、日本のSLの最後を飾るのは、D51であろうと予想していたし、誰もそれを疑
わなかった。
しかし、予想に反して、営業線上の最後の客車を牽引したのは室蘭本線のC57(シゴナナ)であったし、入
換え用としてその後も残り、実質的なSL終焉の幕をおろしたのは、北海道追分機関区の9600(キュウロ
ク)であった。
九州地区においても、それは例外ではなかった。日田彦山線の石灰石輸送を受け持っていたD51が早々に引
退した後、筑豊と南九州にわずかながら残っていたD51も、かっての陸の王者の面影はなく、日向路のC5
7と田川路の9600が主だったところだったが、やはり、特筆すべきは、田川路の9600であろう。その
9600も、末期にはC11の応援を受けるなど、苦しい状態が続いたが、よわい50を越えていたわりには、
実によく働いた。
北九州から峠を越えて30分、そこは『青春の門』のふるさと、筑豊の真っ只中である。今こうして夜のしじ
まの中でペンを走らせていると、9600を求めて、筑豊の山野を思う存分走りまわったあの頃がなつかしく
思い出される。9600が走らなくなってから6年以上経ち、DE10が黙々と石灰石を運び続けている。
9600が消えた今、田川線の油須原をたずねる人はまれであり、かって鉄道ファンの三脚が並んだ場所には
草が生い茂り、足を踏み入れることさえできない。ファンの写真をいっぱいに飾った峠の茶屋も、店じまいし
てしまった。
それでも、時々は油須原をたずねてみる。かって9600をとらえた同じポイントで、あの頃と同じように、
三脚を立ててDE10を待っていると、元気に煙を吹き上げていた頃の9600の姿とオーバーラップして、
何ともやるせない気持ちになることがある。
キネマ旬報社『蒸気機関車』終刊号(1981年7月号)掲載「きゅうろくの構図」より抜粋
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