文学散歩

文学碑


●森鴎外「小倉日記」句碑
  福岡県香春町役場 2017/6/20 K-5Us

森鴎外が「舞姫」を発表したのが1890年、28歳の時で、それから15年ほどは、ほとんど文筆活動を行っていなかった。
代表作が書かれたのは、50歳を過ぎてからの5年間ほどだった。
「小倉日記」は、1899年、37歳の時に陸軍軍医として小倉赴任中に書かれた。

「小倉日記」は、
明治三十二年(1899)六月十六日。午後六時新橋を発す。で始まり、
明治三十五年
(1902)三月二十八日。午前十時五十分新橋に到る。で終わっている。
内容は、2年9か月ほどの間の軍務を中心に記録したものである。

明治34年(1901)7月3日、軍事演習のために小倉を立ち、曽根、苅田を経て行橋に泊まった。4日、行橋から香春へ入った。
梅雨の真っ只中で、ほとんど連日雨だった。この時代は民家が少なかっただろうから、あちこちに演習地があったようだ。

四日。雨。午前七時行橋を発し、午に近づきて七曲嶺を踰ゆ。隧道あり。
  
雨に啼く鳥は何鳥若葉陰
香春杜氏の家に午餐す。某氏題する所の梵文の扁額あり。糒村西方の高知に至りて演習す。夜金田停車場辺の旅館青柳に舎る。

  七曲嶺とは仲哀峠の七曲りであり、隧道とは仲哀隧道のことである。
  行橋から金田へは現在の道路では22kmくらいであるが、当時の道路では30kmくらい歩いたのではないだろうか。
  ただし、鴎外は軍医であるから、馬に乗っていたであろう。

八日。雨。後藤寺を発し、伊田村北方の高地に至りて演習す。香春の醸造家松島氏に舎る。
主人二女をして来り侍せしむ。長を閑と曰い、幼を静と曰う。並に容姿閑麗なり。

  鴎外は、行き帰りに香春で杜氏と醸造家の家に立ち寄っている。酒好きかと思ったら普段は酒を飲まなかったそうだ。

九日、陰。香春南方の高地宮尾に至りて演習す。金辺嶺を踰えて小倉に帰る。

  金辺嶺とは金辺峠のことであるが、当時金辺隧道はなく、秋月街道の峠道を通ったことになる。


香春町役場には説明板と句碑がある。後方に見えるのは香春岳。


雨に啼く 鳥は何鳥 若葉陰

●良寛の句碑・詩碑
  岡山県倉敷市玉島円通寺 2016/1/12 EOS 5D
円通寺は、新潟出雲崎生まれの良寛が22歳から33歳まで修行したところ、安政8年(1779)から寛政2年(1790)の時期に当たる。


山門入口に「ふきょくんしゅにゅうけいだい」(酒をのんで境内に入ることを禁
じる)の碑があり、その左に良寛辞世の句碑がある。
うらを見せ おもてを見せて ちるもみじ
  


円通寺公園の展望所近くに、6mほどの大きさの良寛詩碑がある。
円通寺に来りてより幾春冬なるかを知らず  門前千家の邑(ゆう)更に一人を知らず  衣垢(ころもあか)つけば手自ら洗い食尽くれば城闉(ひん)に出ず  曽(かつ)て高僧伝を読む  僧はよろしく清貧なるべし


良寛像。


良寛堂。

●大町桂月文学碑
  青森県黒石市中野神社 2015/10/14 EOS 5D
中野神社は別名もみじ山ともいわれ紅葉の名所として知られている。
大正11年(1922)11月6日にここをおとずれた時に詠んだ歌が刻まれている。


ひとしほの 木の葉は散りて 散り残る 楓の山の 美しきかな


碑は赤い不動橋の右手にある。
紅葉はもう1週間後くらいからのようだった。

●大町桂月文学碑
  青森県青森市城ヶ倉大橋 2015/10/14 EOS 5D
紅葉目的で城ヶ倉大橋に立ち寄った。紅葉は見頃を少し過ぎていたが、まだ十分に美しかった。
橋の北側のたもとに、大きくてきれいな大町桂月の文学碑があった。
大正11年(1922)8月18日に八甲田山麓の酸ヶ湯温泉に滞在した時の詩文が刻まれている。

嫦娥くらの景は
六方石にあり
入江のふち 磁石のふち


城ヶ倉を嫦娥くらと表現している。六方石とは玄武岩の柱状節理のことである。細かい文字の部分は、紀行文 「 花の八甲田 」の一部などが刻まれている。


●松本清張文学碑
  鳥取県日南町矢戸 2012/11/6 K20D
鳥取県の地図を見ていたら、松本清張文学碑という文字が目に飛び込んで来た。場所は日南町である。
日本のそんなに南でもないのに日南町という名が付いている町なので、以前から印象に残っている町だった。
清張作品で日南町を舞台にした作品はなかったはずだと思いながら現地を訪ねてみると、そこは清張の父が生まれた町だった。
幼き日 夜ごと父の手枕で聞きし その郷里矢戸 いまわが目の前に在り

矢戸の交差点近くにある自然石の大きな文学碑。

矢戸の交差点。

●竹久夢二の句碑と歌碑
 北九州市八幡東区枝光 2012/7/10 EOS 5D
明治17年(1884)岡山県に生まれ、明治から大正を生きた抒情画家竹久夢二は、明治33年(1900)、枝光へ家族とともに移り住み、操業
開始したばかりの八幡製鉄所の図工として働いた。翌年、夢二は単身で上京するが、家族は20年あまり枝光に住んでいたという。

八幡製鉄所跡地に造られたテーマパーク「スペースワールド」東側の県道は「夢二通り」と命名され、夢二の美人画のモニュメントがある。
山王の交差点から南東へ少し行った内科医院あたりが夢二の住居跡で句碑がたっている。そこから北へ歩くと諏訪一丁目公園があり、
昭和53年(1978)にたてられた宵待ちの歌碑がある。この公園では、歌碑建立を記念して毎年「夢二まつり」が行われているという。


風まどい夏色の影夢二あと 作者不詳


宵待草のやるせなさ 夢二

●与謝野鉄幹・晶子瀬平公園歌碑
 鹿児島県南九州市 10/2/14 K10D

迫平(せびら)まで我れを追い来りて松かげに 瓜を裂くなり頴娃の村をさ 与謝野鉄幹
片はしを迫平に置きて大海の 開聞が岳立てるなりけり 与謝野晶子

この歌碑は頴娃町観光協会が建立したもので、碑の背面には次のように刻まれている。

歌人与謝野鉄幹(寛)晶子夫妻は,昭和4年7月から8月にかけて山本実彦氏(当時改造社長)の案内で47年ぶりに来鹿,県下各地を歴訪しましたが、8月1日、この瀬平海岸で休息し、当時の樋渡盛広村長の歓待を受けました。

この二首は,洋上に屹立する開聞岳の雄姿、樋渡村長の厚遇にこたえて詠んだもので、そのときの歌集「霧島の歌」の中に収録されているものの1つです。

その歌集の全書には「自動車を南薩に駆る。・・・・・池田湖に到り、次いで頴娃村に出て,迫平(瀬平)の海岸に小憩して近く開聞獄を仰ぎ、また南海を展望す。竹島、硫黄島、屋久島等、遠く水煙模糊の間に在り。頴娃の村長樋渡盛広氏追ひて到り、西瓜その他を饗せらる。雲ありて、しばしば開聞獄を遮る。」とあり、この地からの眺望のすばらしさを述べています。

またこの瀬平海岸は、昔は「瀬平渡り」といって、海岸に突き出た岩と岩との間を波しぶきを浴びながら跳んで渡るという難所で、ここから約50m西方国道沿いの崖の洞穴には、元禄4年(1691年)にこの難所の交通安全を祈って作られた瀬平観音像も安置されています。


遣唐使船がデザインされた壁。この上に歌碑がある。


瀬平観音。

  
瀬平橋の欄干に歌碑が刻まれている。左が鉄幹の歌、右が晶子の歌。

●与謝野晶子星ふる館前歌碑
 熊本県竹田市久住町 09/10/25 K-7

九州の あるが中にも 高嶺なる 久住の裾野 うらがれにけり
昭和6年(1931)に久住を訪れたときに詠まれた歌。

ここは旧街道の日田往還。
往時を偲ぶ松並木が残っている。

●林芙美子生誕地文学碑
『掌草紙』  北九州市門司区羽山 08/11/12 K10D
文学碑は小森江浄水場跡近くの公園にあるが、
実際の生誕地は、ここから西へ400mほど
の神戸製鋼所のあたりとされている。


掌草紙


いづくにか
吾古里はなきものか

葡萄の棚下に
よりそひて

よりそひて
一房の甘き実を食
(は)
言葉少なの心安けさ

梢の風と共に
よし朽ち葉とならうとも

哀傷の楽を聴きて
いづくにか
吾古里を探しみむ

●松本清張文学碑
時間の習俗』  北九州市門司区和布刈神社 08/2/16 K10D
神奈川県の相模湖畔で交通関係の業界紙の社長が殺された。
容疑者のタクシー会社専務は、死亡推定時刻には、遠く離れた九州の和布刈神社で行われた新年の神事を見物しカメラに収めていた。
この完璧すぎるアリバイに不審を抱いた『点と線』の三原警部補と鳥飼刑事が、試行錯誤を繰返しながら巧妙なトリックを解明してゆく。

和布刈神社奥に松本清張の小説時間の習俗の一節を刻んだ文学碑がある。


 神官の着ている
 白い装束だけが火を受けて、
 こよなく清浄に見えた。
 この瞬間、時間も、空間も、
 古代に帰ったように思われた。

この作品の書き出しはなかなかの名文。


和布刈砲台跡の碑と並び立つ松本清張文学碑。


和布刈神社前のこの場所で、旧暦元旦に和布刈神事が行われる。


門司港の旧門司三井倶楽部に展示されている「和布刈神事」の模型。

●佐多稲子
素足の娘 兵庫県相生市中央公園図書館付近 07/12/3 *istD

ブロンズレリーフ(洋画家安岡明夫制作)に「素足の娘」の一節が刻まれている。
 『素足の娘』は、佐多稲子が初めて書き下ろした長編小説として、昭和15年(1940)新潮社より刊行され、ベストセラーとなった作品である。この作品は稲子14歳から16歳(大正7〜9)にかけて、当時播磨造船所に勤めていた父のもとでの生活を、自伝的要素を加えて書いている。

 思春期を迎えた少女が、いろんな憬れや希望を抱きながら、いじらしいほどけなげで、ひたむきに生きようとする姿を描いた青春文学は、佐多文学の中でも特異な位置にはいるものだ。

 第一次世界大戦時の活気に満ちた町と人々の動きは、造船所を中心に近代化されていく町並の景観とともにリアルに描かれ、現在もなお当時の面影を町の角に見ることができる。

   
                  
〜文学碑説明文より転載

「ホ、素足のむすめがゆくぞい」と、囁くのを聞いた。この綽名(あだな)は、何か私にいじらしく思われた。
                「素足の娘」より 佐多稲子


碑文は稲子が自ら選んだものであり、文字も自筆。


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