文学散歩

遠藤周作『沈黙』  小説『沈黙』ゆかりの地を歩く

1991/10/16 T90   2000/5/24 MZ-3   2007/10/19,21 *istD *istDS2
2016/10/30 K-5Us  2017/2/5-7 K-5Us EOS 7DU

 

遠藤周作の『沈黙』を読んだのは、新潮社から発行された年の1966年だった。自分の信念・思想が暴力で破壊されるという経験のない者にとっては衝撃的な内容の本だった。

この作品の原点は、長崎の十六番館で見た一枚の踏絵だった。そのことを『切支丹の里』で次のようにかいている。

道を歩いている時や仕事をしている時、あの薄暗い十六番館の片隅でひつそりと置かれていた踏絵とその黒い足指の痕とが記憶の閾(しきみ)の下から水の泡のように浮かんできた。

あの黒い足指の痕を踏絵を囲む板に残した人たちはどういう人たちなのか、これらの人はその足で自分の信ずるものの顔を踏んだ時、どういう心情だったのか。

私は彼らを沈黙の灰の底に、永久に消してしまいたくはなかった。

彼等をふたたびその灰のなかから生き返らせ、歩かせ、その声をきくことは――それは文学者だけができることであり、文学とはまた、そういうものだという気がしたのである。

そして、遠藤周作が『沈黙』の舞台としてイメージしたのが長崎市外海(そとめ)だった。
『切支丹の里』には次のようにかかれている。

黒崎村は海に面し、背後から山に迫られた狭隘な村落である。
長崎から車で一時間半ほどかかるが、かなり悪い道を通り、そして山をこえねばならぬ。現在でもそうならば、むかしは役人の監視の眼も届かず信仰を守りつづけるに恰好の場所だったにちがいない。

峠をこして暗い海が見え、その海が風のために白く泡立っていた。漁師たちの舟も一隻も出ていない。村の背後は低い山が迫っているが、その山まで段々畑がつづいている。それは村の人たちが半農半漁の生活を営んでいることを示していた。

 

 黒崎カトリック教会 2007/10/21

参考図書
   遠藤周作『沈黙』
    遠藤周作『切支丹の里』
    小崎登明『長崎オラショの旅』
    遠藤周作・芸術新潮編集部『遠藤周作と歩く「長崎巡礼」』
    結城了悟『長崎への道』
    広瀬敦子『ハルブ神父の生涯』

関連サイト 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
    


マーティン・スコセッシ監督
『沈黙-サイレンス-』
2017年1月21日より全国公開

1988年、スコセッシが原作と出会ってから28年、幾多の困難を乗り越えて実現したプロジェクト。

人間の強さ、弱さとは?
信じることとは?
そして、生きることの意味とは?


この映画は台湾でロケされたので長崎の風景が登場しないのは残念である。

小説『沈黙』が書かれた時代の主な出来事
外海歴史民俗資料館近くの沈黙の碑(遠藤周作揮毫) 2007/10/21
人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです
1549年 フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝える。
1569年 織田信長がルイス・フロイスに京都での布教を許可。
1570年 長崎開港。
1571年 外海(そとめ)にキリスト教伝来。
1582年 天正少年使節がローマへ出発。
1587年 豊臣秀吉が切支丹伴天連追放令発布。
1597年 長崎西坂の丘で二十六聖人殉教。
1609年 クリストヴァン・フェレイラ、イエズス会宣教師として来日。
1613年 江戸幕府による禁教令発布。
1614年 キリスト教聖職者の国外追放。
1626年 この頃から踏絵がはじまる。
1633年 第1次鎖国令発布。フェレイラ神父からの通信が途絶える。
1637年 島原の乱。
1639年 第4次鎖国令。セバスチャン・ロドリゴ神父ら日本へ潜入。
1641年 オランダ商館を出島へ移設。海外との窓口は出島のみとなる。
1644年 最後の宣教師が殉教し、日本国内に神父不在となる。
フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えてから約100年間の受難の
歴史を経て、明治に入り禁教が解かれるまでの長い潜伏の時代に入る。

小説『沈黙』は、1639年、ポルトガルヘ宛てた「主の平安。基督の栄光。 」という書き出しの司祭ロドリコの書簡で始まり、

あの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。

という言葉で終わる。司祭ロドリコの背教に至るまでの苦悩を描きながら、「神は決して沈黙せす、一緒に苦しんでいるのだ。そして、背教の瞬間にこそ、神は沈黙を破り語リかけてくる」という神の実在を、読む者に問いかけてくる。

その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって言った。
踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。
踏むがいい。私はお前たちに踏まれるために、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ。
こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。


小説『沈黙』の発行から50年が過ぎた。
小説『沈黙』に描かれた季節は、5月から翌年の正月までである。
長崎へは筆者の好きな季節である5月と10月に訪ねているが、新しく取材したものを加えてここに掲載する。

 
 
本物は国立博物館にある踏絵の複製。上の方に足指の痕。2017/2/7

その前にひとつ確かめておかなければならないことがある。
日本の為政者はなぜキリスト教を禁じ、宣教師や信徒を弾圧したのだろうか。
それは、スペインやポルトガルがキリスト教を侵略手段として日本を植民地化することを恐れたからではないか。
当時、スペインは中南米を侵略し、ポルトガルは、ゴア、マラッカ、マカオなどに拠点を持って日本進出をうかがっていた。

1587年の切支丹伴天連追放令をきちんと読んだことがなかった。
内容が分かりにくい所があるが、想像していたものとは少し違っていた。

@日本は神国であるから、キリシタン国から邪法を授かるのは、はなはだ
 よくない。

A(領主が)国郡の者を信徒にして、神社仏閣を破壊していることは前代未
 聞である。領主に国郡在所知行などを任せているのは、当座のことにす
 ぎない。御法度の許可が必要なのに、下々の分際で勝手に行うのは道理
 に合わない。

Bバテレンは教義をもって信者を増やしていると思っていたが、右のよう
 に仏法を破壊している。バテレンを日本の地に置くことはできないので、
 今日より20日の間に帰国せよ。

C黒船は商売をしに来ているのであるから別であり、今後も商売を継続す
 ることはできる。

D今後は仏法を妨げないものであれば、商人はもとより誰であっても、キ
 リシタン国から往来することはかまわない。

切支丹伴天連追放令では不十分と考えた江戸幕府は、1613年に禁教令を発布した。これによってキリスト教徒への弾圧が加速し、1619年までに長崎の教会堂はすべて破壊された。

江戸時代初期の長崎には代表的な教会が9か所あったが、 1613年の禁教令後にことごとく破壊された。サント・ドミンゴ教会はそのひとつであるが、遺構が長崎市勝山町に保存されている。
くわしくはサント・ドミンゴ教会跡
 
 サンタ・クララ教会は1603年に浦上で最初に建てられた教会で、1619年
 に破壊された。大橋電停付近の教会跡には記念碑がたっている。2014/4/21

■外海町黒崎 2017/2/6
(1)永田浜

真夜中、船はふたたびできるだけ静かに動き出しました。
が幸い月がないため空は真暗で誰にも発見されません。

半レグワほどの高さの陸地が少しずつ迫ってきます。
両側が急な山の迫っている入江にはいりこんだことに気がつきました。
浜のむこうに押しつぶされたような家家の塊りが見えたのもこの時です。

まずキチジローが浅瀬におり、続いて私が、最後にガルぺがまだ冷たい海水に体を入れました。

ここが日本なのか、それとも別の国の島なのか。正直な話、3人には見当もつきませんでした。

ここ永田浜は黒崎集落の少し南にあり、ロドリゴとガルぺがキチジローに案内されて、マカオからの長い船旅ののちに日本上陸をはかった場所をイメージさせる。

砂浜を期待してたずねたが石がごろごろしていた。
 
(2)サン・ジワン枯松(かれまつ)神社 2017/2/6
翌朝、暗いうちに、昨日の若い男たちに伴われて私とガルぺは野良着に着かえさせられ部落の背後にある山に登りました。
信徒たちは我々をより安全な場所である炭小屋にかくそうというのです。
霧が森も径(みち)もすっかりかくし、その霧もやがて細かな雨に変わりました。
炭小屋で我々ははじめて自分たちが到着した場所がどこであったかを教えてもらいました。
長崎から16レグアの距離にあるトモギという漁村なのです。

レグアはポルトガルの単位で約4km、したがって長崎から約64km。
トモギ村が黒崎付近だとすれば長崎から約30km、距離がかなり違う。
いずれにせよ、ロドリゴたちが潜伏した炭小屋は、このような山深い所にあったに違いない。

隠れキリシタンが密かに集う場所だったが、日本人伝道者バスチャンが、師
であるサン・ジワン神父をまつるため、キリシタンと分からないように神社
を建てた。



参道の石段と石垣には火山岩が使われている。


参道途中にある「祈りの岩」。この岩陰で、おらしょ(祈り)を捧げた。


(3)黒崎教会 2007/10/21

2007年10月21日、日曜日、8時10分。9時からのミサが始まる前にたずねた。

遠藤周作は『切支丹の里』の中で、はじめて黒崎教会をおとずれたときのことを次のように書いている。
雨に降りこめられた路を歩いて私はここのカトリック教会をたずねた。
こんな小さな漁村にもまるで仏蘭西の田舎のように教会があるのはふしぎだが、考えてみれば、この黒崎村は
もともとかくれ切支丹の村であり、そこからカトリックの改宗者たちが沢山、出てもおかしくないのである。


黒崎教会は、フランス人宣教師ハルブ神父の時代の1920年に完成した。ド・ロ神父指導による宅地造成着手から完成まで23年を要した。
当時の黒崎の住民は約5300人、うちカトリック教徒は約1700人、3人に一人がカトリック教徒だった。現在、信徒数は半減している。
ハルブ神父は1889年に来日し、黒崎教会のほかに、1924年に長崎市三重に樫山教会、1934年に天草市河浦に崎津教会などを建造している。
日清・日露戦争、第1次・第2次大戦の激動の時代を日本で56年間勤め、1945年に崎津で80年の生涯を閉じた。


ハルブ神父時代の1934年に建造された天草市河浦の崎津教会。1992/10/17


以前は畳敷きだったが椅子が置かれていた。2010/2/16


黒崎教会近くの墓地から海を見る。


アプス(後陣)側から見る。


美しい煉瓦造りの聖堂が秋の青空に映える。




薄暗い堂内にステンドグラスからの光が差し込んで、
幻想的な宗教空間を生み出している。


■外海町出津(しつ)
(1)出津の浜 2017/2/6
舟は波間にゆれて浜を離れはじめました。
まだ時間がある。どうかこれらすべてをガルぺと私のせいにしないで下さい。それはあなたが負わねばならぬ責任だ。
ガルぺが走りだし、波うちぎわから海に両手をあげて飛びこんだ。水しぶきをあげて小舟に近づいていく。
泳ぎながら叫んでいる。「我らの祈りを……聞きたまえ」
悲鳴とも怒号ともつかぬその声は、黒い頭が波間にかくれるとともに消えた。
ここは、ロドリゴの同僚司祭ガルぺが殉教した場所をイメージさせる。

 


(2)出津教会 2007/10/21

1879年にフランス人宣教師ド・ロ神父が出津に赴任し、信者と力をあわせて1882年に出津教会を完成させた。外国人神父の設計による初期教会として2011年に国の重要文化財に指定された。



聖堂入口のアーチなどのデザインが美しい。


木造平屋で、外壁は漆喰で仕上げられている。1909年に玄関部を増築した際に塔を建てフランスから1910年に取り寄せた聖母マリア像を設置したという。

聖堂の内部は簡素な平天井でステンドグラスなどはない。


玄関の反対の祭壇側から見る。

(3)ド・ロ神父関連史跡
2017/2/6
@旧出津救助院〜くわしくはこちら
ド・ロ神父が女性の自立支援のために1883年に建てた作業所で、織物、縫物、ソーメン・パン・マカロニなどの食品加工を行った。
おとずれた日は月曜日で休館日だったが、幸運にもなぜか開館していた。おみやげにソーメンを買って帰った。


出津救助院全景。授産場、マカロニ工場とド・ロ塀が重要文化財。


出津救助院入口。手前に製粉工場、むこうに授産場。


マカロニ工場。白壁に赤い十字架が印象的。


煉瓦が美しい製粉工場。水車をまわして粉を引いていたそうだ。


出津救助院中心施設・授産場1階。


授産場2階。修道女の生活の場で、奥にフランス製のオルガンがある。


坂の下から見上げる。左から、授産場、製粉工場、マカロニ工場、そしてド・ロ塀。自然石の石垣が青空に映えて美しい。

右がそうめん、左がふしめん。

ふしめん(節麺)は、そうめんを造る際の副産物。
麺を棒で伸ばし吊して乾燥する際に、棒にかかっていた曲がった分を、
乾燥後に切り離したもの。

そうめんより値段が安い割にはおいしかった。

Aド・ロ神父記念館(旧出津救助院鰯網工場)

旧出津救助院の施設のひとつとして1885年建てられた。当時近海では鰯が豊富に捕れたという。
建物は重要文化財で、ド・ロ神父の遺品などが展示されている。

 
i鰯網工場、ド・ロ神父銅像、その横に「従是西佐嘉領」と刻まれた境石。江戸時代、ここは佐嘉藩と大村藩の国境だった。

B野道キリシタン墓地
ド・ロ神父の墓もある共同墓地。
 

(4)バスチャン屋敷跡

禁教令により外海から神父がすべて追放されたあと、洗礼名バスチャンという日本人伝道者が潜伏キリシタンたちを指導したと伝えられている。
ここは、バスチャンが隠れ住んでいた場所のひとつ。今は車ですぐ近くまで行けるが、かなり山深いところにある。
たずねてみると小さな小屋だった。ロドリゴもこのような小屋を転々としたことだろう。
あいにく修理中で、2017年2月末までには完了するとのこと。


バスチャン屋敷跡への苔むした石垣の道。


壁の修理が終わって、屋根に取り掛かっているところだった。

■外海町大野
(1)大野教会 2007/10/21






ド・ロ壁とよばれる石の壁、赤い煉瓦のアーチ窓、そして木製の雨戸。

1893年、ド・ロ神父が私費で建造した大野教会。民家のような簡素な造りであるが、半円式の窓や屋根瓦の赤い十字架が聖堂であることを示している。


(2)ド・ロ神父大平(おおだいら)作業場跡 2017/2/6
ド・ロ神父が変岳(へんだけ)の原野を開墾する際、1901年頃に建設した作業場跡。石と煉瓦を使用した堅牢な建物だったようだ。
くわしくは
ド・ロ神父大平作業場跡

■外海町神浦
(1)角力灘(すもうなだ)
外海近くの角力灘には大きな島はない。
その中で比較的大きいのは池島で、1952年に炭鉱開発がはじまったがそれ以前の歴史はよく分からない。
定住がいつはじまったのかは不明であるが、弾圧から逃れたキリシタンの集落があり、1629年に殉教者を出したとのこと。
池島の南西に大簑島・小簑島、南東に大角力
・母子島(はこしま)、小角力がある。2016/10/30


池島から南東を見る。左が母子島。後方に見えている白い建物は外海町出津の遠藤周作文学館、その後ろは城山(じょうやま)ではないだろうか。
右が
大角力島で、穴があいているので、ほんげえ島ともいう。後ろには長崎市街へつづく山並みが見える。

小説『沈黙』で、マカオを出港したキチジロー、ロドリゴ、ガルぺたちを乗せた船が長崎近くへやって来る。
もしこの陸地が日本であるなら、私たちはどんな小さな小舟にも発見されてはならないからです。
小舟の漁夫たちは、ただちに役人に異国人を乗せたジャンクが漂流していることを大急ぎで告げに走るでしょう。
闇がくるまでガルぺと私とは二匹の犬のように船荷の間に体をすりよせてかくれました。
水夫たちは、前檣(ぜんしょう)の小さな帆だけを揚げてできるだけ陸地らしい地点を遠く迂回するようにしてくれました。


黒崎の城山から角力灘を見る。手前の黒い屋根は道の駅、白い屋根は遠藤周作文学館。正面に池島と周辺の小島。2017/2/6
ロドリゴたちはこの海の彼方から日本へやって来た。関連ページ 池島炭鉱跡

(2)大中尾(おおなかお)の棚田

黒崎や出津にはほとんど田畑はないが、少し北の神浦には田んぼがある。
海岸から県道57号線を東へ2kmほどのところには、戦国時代から江戸時代にかけて開拓された石積みの棚田がある。
キリシタン弾圧の時代、ここではすでに田んぼが耕作されていた可能性がある 2000/5/24

 

(3)次兵衛岩洞窟
1614年マカオに追放された日本人司祭トマス次兵衛(金鍔治兵衛きんつばじひょうえ)は、のちに帰国したが捕らえられ1637年に殉教した。
小説『沈黙』のロドリゴが山中をさまよっていた頃、トマス次兵衛も山中にひそんで司祭としての活動をしていた。
その次兵衛が隠れ住んでいた洞窟への入口が海岸から県道57号線を東へ7kmほどのところにある。
洞窟までは、沢伝いに小休憩込みで往復約3時間。くわしくは
次兵衛岩洞窟

■長崎市内
(1)日本26聖人殉教地・西坂の丘
日本における布教が困難な状況にあることは宣教師たちの書簡でローマ教会にももちろんわかっていた。
1587年以来、日本の太守、秀吉が従来の政策を変えて基督教を迫害しはじめると、まず長崎の西坂で、26人の司祭と信徒たちが
焚刑に処せられ、各地であまたの切支丹が家を追われ、拷問を受け、虐殺されはじめた。
徳川将軍もまたこの政策を踏襲して1614年、すべての基督教聖職者を海外に追放することにした。

 
日本26聖人殉教記念碑(部分) 1991/10/16


25年以上ぶりに立ち寄った。
2017/2/7

(2)岳(たけ)教会付近 2017/2/7
ロドリゴたちは追手からのがれるために山中をさまよう。その場所のイメージが今の岳教会付近である。
たえず海と海岸とを見失わないように道を選び、海に部落がみつかるかを注意していました。
くもった空に雨をふくんだ雲が船のようにゆっくり流れ、草原に腰をおろして部落から盗んできた干し米と段々畠で見つけた胡瓜とをかみしめました。
青くさい胡瓜の汁は少しだけ力と勇気とを与えてくれました。

そして、ロドリゴは「恐ろしい想像」をする。
もし神がいなければ、人間はこの海の単調さや、その不気味な無感動を我慢することはできない筈だ。(略)
(注)がいなかったならば、何という滑稽なことだ。
もし、そうなら、杭にくくられ、波にあらわれたモキチやイチゾウの人生はなんと滑稽な劇だったか。
多くの海をわたり、三カ年の歳月を要してこの国にたどりついた宣教師たちはなんという滑稽な幻影を見つづけたのか。
そして、今、この人影のない山中を放浪している自分は何という滑稽な行為を行っているのか。
(注)神としないで彼と擬人化したのは、ロドリゴの迷いを強調するためではないだろうか。


岳教会。教会から見える民家は数軒のみ。


岳教会への急坂の途中から海が見える。

(3)樫山 2017/2/6
ここは隠れキリシタンの里といわれている。
時津から国道206号線を西へ進み、県道115号線を南下すると国道202号線に出る。
このあたりから海が望め、樫山がある半島とその先端近くにある赤岳が見える。
江戸時代、このあたりは山深いところで、キリシタンが潜伏するには恰好の場所だった。
ロドリゴが信者がいる部落をめざして彷徨する山中をイメージさせる。
ここから外海町黒崎までは直線距離で5kmほどで、黒崎から移り住んだ人も多いそうだ。


樫山教会は黒崎教会のハルブ神父によって1924年に建造された。
最近改修されたようで外観がかなり変わっていた。


三重漁港から見る赤岳。外国人宣教師追放後、外海地方で布教した日本人伝道者バスチャンにちなんで、「バスチャンの神山」といわれ崇拝された。
      
(4)西勝寺 2017/2/7
石段の上に、山門があった。
夕陽にかがやいた山門の背後にさして大きくない寺が見える。うしろは、崖の茶色の切りたった山につづいている。
庫裏はうす暗く、ひんやりとして板の間には2、3羽の鶏が傍若無人に歩きまわっていた。
長崎奉行所に捕らえられたロドリゴへ棄教するよう説得するため、すでに棄教し沢野忠庵と名を変えたフェレイラにその役を負わせる。
二人が会う場所として設定されたのが西勝寺。
寺でのロドリゴとフェレイラとの長いやりとりが14ページにわたって書かれている。

浄土真宗本願寺派の西勝寺は上町にある。
山門の右手に鐘楼、正面に本堂、境内右手に庫裏がある小さな寺である。
この寺には、「キリシタン転び証文」といわれる改宗を誓った証文が保管されていて、フェレイラの日本名・沢野忠庵のサインがあるという。

余談であるが、西勝寺のすぐ近くに田中旭栄堂という1898年創業の栗饅頭の店があり、ガイドブックにも載っている。直径約10pの大きな栗饅頭が1個800円ほどだったが、思い切って2個買ってしまった。いい材料と手間をかけて作られているからだろう、とてもおいしかった。
 

寺から牢に戻ったロドリゴはフェレイラとの会話を思い出す。その言葉の一語一語がロドリゴの耳を刺(とげ)のようにさす。
切支丹が滅びたのはな、お前が考えるように禁制のせいでも、迫害のせいでもない。
この国にはな、どうしても基督教を受けつけぬ何かがあったのだ。

(5)晧台寺(こうたいじ) 2017/2/7
小説『沈黙』では、沢野忠庵と名を変えたフェレイラが住んだ場所という設定になっている。
裏山にフェレイラの墓があったそうだが、今はどこかに移されて存在しない。
晧台寺は寺町にある曹洞宗の大きな禅寺で、1608年の創建。くわしくはこちら
総門を進むと正面に大仏閣、左に折れ、山門をくぐると正面に本堂、左手に僧堂と鐘楼、右手に庫裏がある。


山門。


本堂。

■その他
(1)五島 2007/10/19
ロドリゴはキチジローの案内で五島へ渡り、パードレ、パードレと寄って来る信者たちを祝福する。
彼等の部落オオドマリには村民全部が役人たちの眼からのがれて今も基督教を信じているのです。
そしてオオドマリだけではなく、その附近のミヤハラやドウザキやエガミとよぶ部落や村々にも表面、仏教徒を装いながら、
しかし信者である者があまたかくれているとのことでした。
彼等はある日、遠い海からふたたび我我司祭たちが自分たちを祝福し、助けてくれる日を長い長い間待っていたのです。


五島へは1566年にキリスト教が伝えられ、一時は福江島や久賀(ひさか)島などの信者数は2000人に及んだという。
ロドリゴが五島へやって来たのはそれから70数年後であった。
幕末から明治初期には迫害を逃れて外海からたくさんの信者が五島へ渡った。そして、五島の島々に美しい教会を建てた。


アルメイダによる五島宣教の様子を刻んだ記念碑(堂崎教会前)。


1873年禁教令が解かれた後、堂崎(どうざき)教会は五島でのヴァチカン的役割を果たしてきた。この聖堂は1908年に完成し、日本26聖人のひとりヨハネ五島を祈念して日本26聖人殉教者聖堂と命名された。

(2)西海市・横瀬浦
2017/2/5
キチジローの密告によって捕らえられたロドリゴは船に乗せられ大村へ送られる。
そのときに横瀬浦を通る。
大村に上陸したロドリゴは裸馬に乗せられ、鈴田峠を越えて諫早を通過し、千束野(せんぞくの)の牢に閉じ込められる。
ヨコセウラという地名はヴァリニャーノ師から幾度も聞かされていた。
フロイス師やアルメイダ師たちがこの附近の領主から許しをもらって開いた港で、
それまで平戸を訪れていたポルトガルの船は以後、この港にだけ寄港するようになった。
丘の上にはイエズス会の会堂がたち、神父たちは、その丘に大きな十字架を作った。

ポルトガル船の寄港地は、1550年平戸、1562年横瀬浦、1565年福田(現在の長崎市福田本町)、1570年長崎、と4回変更させられている。

右の画像は、日本・ポルトガル修好150周年を記念して2010年に発行された切手。
狩野派の絵師が描いた南蛮屏風(ポルトガル国立古美術館所蔵)の南蛮船が絵柄で、日本でも同じ絵柄の切手が発行された。
ポルトガル船が初めてやって来たのは1543年の種子島であるが、通商条約が締結されたのは江戸末期の1860年であった。
 


イエズス会が建てた天主堂があった丘から横瀬浦を見る。


横瀬浦の入口の八ノ子島にたつ十字架は船からの目印となっていた。

(3)大村市・鈴田牢跡
1617年から1622年までに長崎奉行所で捕らえられたイタリア人司祭スピノラや信者35名がここに閉じ込められ、西坂などで殉教した。
小説『沈黙』のロドリゴがおこなったように、スピノラからの手紙によって日本での迫害の様子がヨーロッパに伝えられた。


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