文学散歩

『五足の靴』を歩く

 

■天草 2010/2/16 K10D

『五足の靴』は、
明治40年(1907)夏の約1か月、九州西部を中心に旅した与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里の5人による紀行文で、
旅程より10日ほど遅れではあったが、リアルタイムに近い形で東京二六新聞に29回にわたって連載された。
そのクライマックスは、天草下島西海岸の富岡から大江までの約32qを徒歩旅行である。
以下に天草西海岸部分を書いた3日間の全文を掲載するが、読みやすくするため改行を入れている。
実際の旅は2日間で、8月9日に富岡を出発し夜遅くに大江に到着。10日は午後2時に大江から船に乗り、夕方に牛深到着。

 
五足の靴が上陸した富岡港。
折りしも長崎の茂木からのフェリーが入港して来た。港の入口の砂州のある風景は当時とあまり変わっていないのではないだろうか。

     
富岡より八里の道を大江に向ふ。難道だと聞いた。天草島の西海岸を北より南へ、外海の波が噛みつくがりがりの石多き径に足を悩ましつつ行くのである。

土痩せたる天草の島は稲を作るのに適せぬ、山の半腹の余裕なき余裕を求めて甘藷(かんしょ)を植ゑる。島民は三食とも甘藷を食ふ。

或る処は川が路である、点々たる石を伝ふて辛うじて進む。その多くは塁々として砂礫(されき)尽くるなり荒礫左に聳(そばだ)つ嶮山(けんざん)の裾(すそ)を伝ふて行く。

足早き人K生M生はずんずん先へ行く、目的はパアテルさんを訪(おとな)うにある。足遅き人I生H生B生は休み休みゆっくり後から来る、目的は言うが如くんば歴史にあらず、考証に非ず、親しく途上に自然人事を見聞するにある。大岩に罅(ひび)が入り象形文字の様に見ゆる断崖のもとを廻る処で紛(はぐ)れてしまった。

                   富岡城址から見た富岡の町並み→
  
    
顧みれば淡く霞んで富岡半島がまだ見えた。三里か四里は来たらう。

茶屋の婆(ばゝあ)に婆さんの言葉はちっとも分らぬと言ふと、あんたがたの云はっしゃる事も分かりまっせんと言った。

婆さん子供があるかい。ありますとも。幾つだい。幾つだって大勢居るさあ。爺さんは居るのかね、爺さん居らつさんば、一寸(ちっとん)楽しみも無かとで御座いますたい。とやったので皆吹出してしまった。歯抜け婆さんの愛嬌のある事よ。


            振り返ると
            富岡半島が見える→






 
 

暫く行くと先に立ったH生がぴたりと止まった。五尺余りの大かがち、紅き地に黒き斑(まだら)を物凄く染め出した縞蛇(しまへび)が犬の頭ほどの蟇(がま)を呑みかけてゐる。岸を打つ波の音は白い、山を吹く風は青い、その間を縫う径の中央で蛇が蟇を飲む。三生暫くは呆れて眼を見張って突立った。人ありと知るや知らずや、蛇は長き体をうねうねとうねらせて草の中へ引きずり込もうとする、蛙は弱いが重い、前足の一つを噛(か)ませて硬く執って動かぬ、或は既に死んだのか知れん。強者弱者を食ふ比ぶるものなき残忍なる行為だ。

自然の一部には眦(まなじり)をさいて呪ふべきものがある。やはか許すべきと路傍の大石を空高く振り翳(かざ)したるI生は近(ちかづ)いた。やっと言ふと蛇は砕けた、と思ひの外どうも無い、打たれて痛かったのか暫くは動かぬ、今度は赤い舌をぺろぺろ吐いた、吐いた舌を従順なる蟇の背に向け食ひついた、くわっと怒ったI生は此(この)時他の石を拾った、今度はと思ったが失策(しくじ)った、中(あた)つたが死なぬ、するすると伸びて叢(くさむら)へ逃げ込んだ、そら来たと言ってI生は海の方へ逃げ出した、B生もあわてて逃げ出した、H生は後の始末を見届けて、何れも波打際に転がって居る石を渡って行く事にした。

途に小さい炭鉱があった、古ぼけたボイラーが破れた家根の下で燻(いぶ)って居る。山を腹に穴を明けて石炭をえぐり出す、奥を見ると真暗な穴の入り口に裸の男が暑さうに寝ていた。

暫く行くと道は山へ登る、羊歯(しだ)が青々と一面に繁って暖き南の国の香を送る。脚下の白い波をたどると水平線が大分高まって居る。杉の木立が黒ずんで山麓を飾る、その間から紺碧の海が見え、涼しい風が吹く。汗は背、腹を洗ひ、頭から流れるものは眉を溢れて頬に伝ふ。水あれば水を飲み、茶あれば茶を呼ぶ、今朝から平均一人五升も飲んだか、腹がだぶだぶする、胃はもう沢山だといふ。喉はもっと欲しいと促す、勝は常に喉に帰した。

山の方が道は楽である。峠を越す事二つ三つにして下津深江といふ湯の出る港へ着いた。午後二時。先着のK生M生が待って居た。農事講習会の災する処となって茶屋も宿屋も断られ、大いに困って此処(ここ)へ頼んだといふ、瀟洒(しょうしゃ)なる物売る家の二階に通る。老主人来る、頗(すこぶ)る慇懃(いんぎん)である。

一体この辺の言葉はとんと素人には分らぬ、それかあらぬか、老人は気を利かして一切土語(どご)を語らぬ。「君達は」と口を開いた、これは最上の敬称代名詞の積りと見える。「いづ方へ参られまするか。」又言ふ「道は甚(はなは)だ険道(けんどう)でありまするとは雖(いえど)も。」又言ふ「必ず似て参られまする、は、は。」その代わりよく分った。梅干しも奈良漬も皆甘かった。一睡して、大江迄もう四里、訳はないと、三時を過ぐる幾分に出かけた。

下津深江は現在の下田。富岡から16km、一行は5時間かかって午後2時に着いた。ここで昼食をとり午後3時に出発した。

下田から3.2kmの旧道が五足の靴文学遊歩道として整備されている。
遊歩道入口から1.8kmのところで国道389号線を横断し、さらに1.4kmの旧道を歩く。
前半だけであれば50分、通しで歩けば2時間かかる。
     

遊歩道の北の入口。

北の入口から1.8km、国道を横断する地点。


遊歩道後半の入口。


遊歩道終点付近の国道とトンネル。案内図の拡大画像はこちら
    

五足の靴は驚いた。東京を出て、汽車に乗せられ、唯(ただ)僅(わずか)に領巾振山(ひれふるやま)で土の香を嗅(か)いだのみで、
今日まで日を暮したのであった、初めて御役に立って嬉しいが、嬉しすぎて少し腹の皮を擦りむいた、いい加減に御免蒙(こうむ)りたい
という。併(しか)し場合が許さぬ、パアテルさんは未だ遠い遠い。
    

道を誤(まちが)へて後戻りするやら何やらして甚い儉しい峠を超えると川がある、川の中に馬が遊んで居る。高浜の町は葡萄(ぶどう)で掩(おお)はれて居る、家毎に棚がある、棚なき家は家根に葡(は)はす、それを見て南の海の島らしい感じがした。豆を豆殻より離さむた槌もて莚(むしろ)を打つ子がある。

三生は橋に凭(もた)れて暮れゆく雲を見る、二生は富岡に倣って駐在所を訪うたが留守だ、昔の大庄屋の家へ出かけ天草の乱の孝証中である、此処 (ここ)は面白い、宿らうというH生の提議もパアテルさんには敵(かな)はん、H生は詩を作る。


わかうどなれば黒髪の
香をこそ忍べ、旅にして
わが歴史家のしりうごと、
「パアテルさんは何処に居る。」

南の海の白鳥の
躯(むくろ)うかぶと港みて
舟夫らはうたふ。さりながら、
「パアテルさんは何処に居る。」

遍路か、門に上眼して
ものものしげにつぶやくは、
「さて村長よ」またしても
「パアテルさんは何処に居る。」

葡萄の棚と無花果の
熱きくゆりに島少女
牛ひきかよふ窓のそと、
「パアテルさんは何処に居る。」

かくて街衢(ちまた)の紅き灯に
三味もこそ鳴れ、さりとては、
天草一揆、天主堂、
「パアテルさんは何処に居る。」

パアテルさんの事は明日誰かが書く。

 
    
高浜に着いたのは夕暮れで、「わこうどなれば黒髪の」の詩を詠んだ白秋は高浜で泊まることを提案するが、一行は大江をめざして歩き出す。
五足の靴から25年後の昭和7年(1932)秋、与謝野鉄幹は晶子夫人を伴い、この地をおとずれて歌を残している。
天草の十三仏の山に見る 海の入日とむらさきの波 (与謝野鉄幹)
天草の西高浜のしろき磯 江蘇省より秋風ぞふく (与謝野晶子)
    

高浜の十三仏公園の展望台には、鉄幹と晶子の大きな歌碑。

詩碑のある場所から見た海の風景。

日は沈んだが一里だ、行って仕舞へといふので出かけた。二生は先に行く、三生は後からぶらぶらと行く。だんだん暗くなる、自然の上に荘厳の色が加はる。醜いものを消してしまひ、常のものをぼかして美しくすると共に、美しいものを愈々(いよいよ)美しくする。道は山へ登る、凄く美しいと思って潜(くぐ)った杉の木立も次第に怖ろしくなった、地獄へ入る思ひがする。山腹の段々になった芋畑が蛇の腹の様に見えて怖ろしい、怖ろしいと思ひ乍(なが)ら登って行くと先行の二生が待ってゐた。もう少しだ、薄明のある内に早く越えてしまはうと茲(ここ)で五足の靴が合して、とっぷり暮れた山道も傍眼(わきめ)も振らず、労(つか)れた足を乗せて行く。

微に明るい空には夕立の雲が直ぐ降るぞと表れて居る。振り返ると遥か底の方に高浜の灯が見える。山の真中だ、人の声はもとより無い、鬼気肌に迫って来る。踏む所は相変わらずガリガリの石の上である。躓き乍(なが)ら、分れ道のあるのに直なる方を取って、づんづん進んで行ったのが抑々(そもそも)誤りの第一歩であった。道は次第に狭くなる、T生がどうも怪しいと言ひ出した、M生はなに大丈夫、あの山の峰の森が切れて居る、あの切目へ出る筈だといって、先ヘ立って無二無三に行く。暗い暗い、足で探り辛うじて道を求める、道は愈々(いよいよ)狭い、如何も怪しい、とうとう道が無くなった。

M生も流石に弱った、道を違へてからもう余程来て居る、方角が全然違ふらしい、夫(それ)も一歩を誤らば百尺の谷へ陥りさうな危い径であった。体は労れてゐる。如何仕ようといふ問題が起った、野宿をしようか、元に戻って高浜へ泊らうか、先の所迄下って左へ曲らうか、この暗さでは何れも容易に行はれさうに無い、パアテルさんの祟(たた)りである、どう考へても安全の策は無い、窮した、先立てる者は後れたる者を声をもて導く。滑るよ、危ないよ、石だよ、急に下るよ、左は崖だよなどと言ふ。それを順に後へ伝へる。蝮(まむし)を踏みはせんかといふ心配もある、元気を喚起さうとM生は独演説を始めた。

人もや有ると万一を期してオオイと呼ぶ、オオイと答へる。山彦らしい。オオイと呼ぶ、答へが無い。人かしら、オオイ、モシモシ、「誰だ」と暗い山がものを言ふ。占めた、人が居る然も畑を挟んで直ぐ向に居るが、如何やら唯人ではない、夜盗の種類では無からうかと興奮してゐる頭は余計な心配をした。「東京の学生で天草の歴史を調べに来て居るものだが、今日は富岡から来たのだが、道を間違へて」「アアさうですか、私等は大江駐在所のものです。」安心した、近づくと平服巡査二人が角燈を後へ向け、「実は犯人捜索の為めに来たので御一緒に行き兼ねるが、これより三十米突先に小屋がある、そこの男に案内させまっせう、これから先は下りだから何でもありまっせん」と親切に言って呉れた。此処(ここ)から左に行けば何事も無かったのである。

助かった。少し上ると成程破屋(あばらや)に爺と若い男とがカンテラ点けて仕事をしてゐる、そこへぞろぞろはいっていく、芝居がかりである、先づ茶を請ふて干いた喉を沾(うるほ)したのはよかったが、提灯(ちょうちん)も蝋燭(ろうそく)も何もないといふ。この暗さでこの山道はとても歩けぬ、窮して通ず、松明(たいまつ)を作らうといふ、M生は経験があるそうな、竹を割って藁を包み、それに火を点じた。

山がぱっと輝く。若い男が夫を振って先へ立つ、後から五人がぞろぞろ続く、如何にも芝居がかりだ。松明(たいまつ)の照す処昼を欺く、思ひの外明るい、六つの陰影(かげ)が石を跳ぶ。もう五丁、もう三丁と労れきって大江村へ着いたのは十時である。汚い木賃宿めいた宿へ案内された、宿めて呉れといへば、すっかり塞がってゐて御気の毒だがお断りだというふ。これでとうとう馬琴式になり終った。巡査に会ったのも馬琴式だ、松明(たいまつ)も月並だ。折角(せっかく)の難渋(なんじゅう)も落ちがわるいので滅茶滅茶になってしまった。それでも頼んで泊めてもらった。

昨日の疲労(つかれ)で今朝は飽くまで寝て、夫れから此(この)地の天主教会を訪ねに出掛けた。所謂「御堂」はやや小高い所に在って、土地の人が親しげに「パアテルさん、パアテルさん」と呼ぶ敬虔なる仏蘭西(ふらんす)の宣教師が唯一人、飯炊男の「茂助(もをすけ)」と共に棲んでゐるのである。案内を乞ふと「パアテルさん」が出て来て慇懃(いんぎん)に予等を迎えた。「パアテルさん」はもう十五年も此(この)村にゐるさうで天草言葉が却々(なかなか)巧い。茂助善(よ)か水を汲んで来なしやれ。」と飯炊男に水を汲んで来させ、それから「上にお上がりまっせ」と懇(ねんご)ろに勧められた。

又予等が乞ふに任せて、昔の信徒が秘蔵した聖像を彫むだ小形のメダル、十字架の類を見せて呉れた。夫れに附いてゐた説明の札には、「このさんたくるすは、三百年まへより大江村のきりしたんのうちに、忍びかくして守りつたへたる貴きみくるすなり。これは野中に見出でたり。」云々と書いてあった。此(この)種類のものは上野の博物館にあったやうに覚えてゐるが、却々(なかなか)面白い意匠のものがある。

 「パアテルさん」は其(その)他いろいろのことを教へて呉れた。此(この)村は昔は天主教徒の最も多かった所で、島原の乱の後は、大抵の家は幕府から踏絵の「二度踏」を命じられたところだ。併(しか)し之で以て大抵の人は「転んで」仕舞って、唯この山上の二三十の家のみが、依然として今に至るまで堅く「ディウス」の教へを守ってゐるさうである。

是等の人は今尚十字架、聖像の類を秘蔵して容易に人に示さぬ。或は深く柱や棟木の内に封じ込んでゐるものもあるさうだ。それで信者は信者同士でなければ結婚せぬ。縦(よ)し信者以外のものと結婚するとしても、それは一度信者にした上でなければならぬ。いや、今は転んで仏教徒になってゐるものでも家の子の出来た時には洗礼をさせ、又死んだ時にも、表面は一応仏式を採るが、其(その)後更めて密かに旧教の儀式を行ふさうだ、棺も寝棺で、内服装も当時の信徒の風に従ふのださうだ。

予等は又「パアテルさん」に導かれて礼拝堂を見た。万事瀟洒(しょうしゃ)として且つ整頓してゐるが、マリア像の後に、赤き旗に、「天使の皇后」「聖祖の皇后」と記されたのは、少々辟易せねばならぬ。併(しか)し此(この)教会に集る人々は、昔の、天草一揆時代の信徒ではなくて、此御堂建設後、二十七年の間に新に帰依したものである。それは、大江村に四百五十三人、それから此の「パアテルさん」が一週間交代でゆく崎津村に四百五十九人あるさうだ。尤も昔の信者の家々も教会に集りこそせざれ、一週一日の礼拝日は堅く守って、その日は肥料運搬等の汚れた仕事は一切為ない。所が何という間違か、それは日曜日ではなく、昔から土曜日ださうだ。
    
パアテルさんと呼ばれたのは、フランス人のガルニエ神父のことである。
大江に着任して15年が経過し、当時47歳、崎津教会の司祭を兼任していた。
昭和17年(1942)、81歳で没するまでの約50年間、大江の地で布教に勤めた。


大江カトリック教会玄関。



←ガルニエ神父像。
    
    

大江カトリック教会と吉井勇の歌碑。
白秋とともに泊りし天草の 大江の宿は伴天連の宿
現在の聖堂は昭和7年(1932)にガルニエ神父によって再建されたもので、五足の靴の頃は木造平屋の瓦葺きだった。

歌碑の除幕式が行われたのは昭和27年(1955)、
存命だったのは吉井勇だけだった。除幕式に出席した吉井勇は歌を残している。
ともにゆきし友みなあらず我一人
老いてまた踏む天草の島


この歌碑は、昭和27年の歌碑の隣に平成13年(2001)に建てられた。

一体日本近世の歴史で最も興味あるものは、戦国の終、徳川の初期に於ける外国文明の影響の如き其(その)一であらう。此(この)時代の新しい纏った研究の尠(すくな)いのは遺憾である。殊に長崎、平戸、天草辺から入って来た日本化した外国語などは、殆んど注意されずに消えてゆくらしい。若し恁んなことを調べる積りで九州下りまで旅する人があったら屹度(きっと)失望するだらう。土地の故老、吏員などに質しても、彼等は惘然(もうぜん)として答ふる所を知らない。

余り「パアテルさん」のことに引絡(ひきから)まってゐるとまた一行の人から諧謔(かいぎゃく)詩などを書かれるから、今度は此(この)村の有様を記さう。非常に薩摩に似てゐるとK生は言った。兎に角辺鄙な所で、三面は山、一面は海、猫額大の平地には甘藷(かんしょ)が植ってゐる。之と麦飯とが此(この)地の住民の常食だ。

此(この)朝H生が髭を剃りに出懸けて、不図昨夜山中で、巡査に遇ったことを話したら、それから夫れと問ひ詰められて、結局「貴方達ちゃあ、何しにそぎやん旅行(ある)きなはんな?」「そぎやん金どきやんして儲けて来なはったな?」と驚嘆せられて戻って来た。序だが、昨夜の賊といふのは金二十五円を詐欺して逃げたのださうだ。此(この)島に取っては稀有の大事件らしい。

天主教会を下って海浜の街を歩いた。夏の真昼だから可いものの、之が例の秋の夕暮ででもあったら、其(その)蕭条(しょうじょう)たる風物は木乃伊(みいら)にでもされて仕舞うだらう。宿は木賃同様だから頓と食ふべきものがない。所が幸ひ此(この)散歩の途で南瓜(たうなす)を見付けたから、之を購ふことにして価を聞いたが、主人は幾等(いくら)でも可いといふ。「南瓜(ぼうぶら)」なんか、此(この)村では売買しないさうだ。結局三銭出して掲げて帰った様は聊(いささ)か滑稽(こっけい)だった。
・・・・・以下略
       
一行は、午後2時、大江から船に乗り牛深に夕方着いた。この船は崎津に寄港したようだが、一行は崎津には上陸していない。
もし崎津に上陸していたなら、何か発見があり歌や詩が生まれたかもしれない。

ガルニエ神父が司祭を兼務した崎津カトリック教会。
昭和9年(1934)の建造。
   

■阿蘇 2012/5/22 K10D,K-7

天草から島原、長洲を経て熊本市内には行った一行は、8月13日に馬車で阿蘇へ向かい大津で昼食をとる。
立野、戸下を通り、栃木温泉の先で馬車を降り、徒歩で垂玉温泉へ向かい山口旅館に泊まった。

外輪山の切れ目を入ると、光景が一変する。平凡極まるだらだら道は一転して、山緑して高く、水白く谷に砕くる懸崖(けんがい)の上に出る。田原(たはる)山は嵐山(らんざん)にも勝る、戸下の湯は伊豆の湯ヶ島よりもいゝ。横手の山の頂から落つる細長い滝もいい。

道は外輪山の中腹を廻る、高くて急いだからいやにうねる。太く壮んな真白の滝の落ちて白川となり、栃の木の湯のある辺りから大道は日向へ抜ける。未だ日が高い。もう一里行くと垂玉の湯がある、其(その)処迄努力しようと嫌ふべき馬車を降りた。灰降る高原を五生は登つていく、時々仰いでは群がる山の後ろから天へ昇 余る灰色の烟(けむり)を眺める。

垂玉(たるたま)は未だですか。近かございます。あの山の壊れた所ですと女は教へた。青い山の剥げて土のあらはなるが見られる。山の道は近くして遠い。遠い路を登り尽くすと見よい滝が三つ四つ落ちて谷を流れる。如何した事か大なる山の一角がからからと崩れて谷を埋めて居る。それが清く新しい、そこだけ一草も生えぬ、頂より谷に続く無数の石の死骸は未だ生々しい。

豊肥本線が立野まで開業したのが大正5年(1916)、五足の靴一行がおとずれたときは鉄道はなかった。
したがって、現在の国道57号線に相当する道を馬車で行き、立野から戸下温泉を経由する道へ入り、栃木を経て垂玉へ達した。



戸下温泉付近で、黒川と白川が合流する。
旧道には明治33年(1900)建造の黒川橋という石造橋がかかっている。五足の靴一行もこの橋を渡った。
今この道は落石のため通行止めになっているので、長陽大橋から撮影した。戸下温泉は長陽大橋の下にあった。
この写真の右手に見えている地面が戸下温泉碧翠楼という温泉旅館への道の名残りである。

戸下の湯は伊豆の湯ヶ島よりもいゝ
と書かれているので、五足の靴一行も戸下温泉に入浴したのであろう。
筆者は、昭和48年(1973)1月、高森線を走るSLを撮影するためここに泊まり、翌朝、旅館から河原へ降りて白川橋梁を行くSLを撮影した。
横手の山の頂から落つる細長い滝もいいとあるが、このあたりに滝はない。後ろに見える柱状節理から滝が流れ落ちていたのかもしれない。

2016年4月の熊本地震により、この風景は失われた。
      

戸下温泉碧翠楼跡地。上が白川、右が黒川。ダム建設のため移転した
のであるが、あれから40年、ダムはまだできていない。

長陽大橋付近の園地にある与謝野鉄幹・晶子の真新しい歌碑。
2016年4月の熊本地震後、歌碑がどうなったのか確認できていない。

後に滝の音面白き山を負い、右に切つ立ての岡を控へ左の谷川を流し、前はからりと明るく群山を見下し、遙に有明の海が水平線に光る。高く堅固な石垣の具合、黒く厳しい山門の様子、古めいた家の作り、辺りの要害といひ如何(どう)見ても城廓である、天が下を震はせた昔の豪族の本陣らしい所に、一味の優しさを加へた趣がある。

これが垂玉(たるたま)の湯である、名もいゝが、実に大に気に入つた。石の階段を登り、大手の門を潜(くぐ)ると、正面に二階建の長い御長屋がある。絵に見る遊廓の様で、唯古色蒼然たるを異にしてゐる。左右に鶴翼を張つて、同じく二階建の楼閣がある。山を切つて広く平にならした運動場の様な庭も面白い。一体に規模の大きいのが気持がいい。


垂玉温泉山口旅館。筆者は、もう20年も前に名古屋在住の写友と宿泊した。正面に見える茅葺きの建物がお風呂だったと思う。
      
湯も亦極めて大きい、三条(すじ)の滝となつて石もて畳める湯槽に落ちる、色は無いが、細く白い澱(をり)が魚の子の様に全体に浮遊して居る。硫化水素の臭ひが鼻を刺す。一浴して廊に出づれば、そこら灰だらけである、踏むとざらざらする。むくむくと火口を出で一度空を渡つて落ちて来た地心の砕けであると思ふと、気持の悪い中にも唯の埃と違って面白い処がある。

遠く海に沈みゆく夕日を眺め、更に眼を転ずれば大空を筋違に灰色の烟(けむり)が通る、新月が出て居る、山で見る星の光りは極めて爽かで美しい、水の音が聞こえる。今は浴客が満ちて居るが、秋など唯一人こんな所へぶらりと宿(とま)ったら如何だらうと思った。明日は天気がよさそうだ。

三条(すじ)の滝となつて石もて畳める湯槽に落ちる
とあるのは、金剛滝の下にある滝の湯ではないかと思うが、滝と湯槽とは距離があり、滝の水が湯槽に落ちるというのは無理がある。別の場所のことかも知れない。

一浴して廊に出づれば、そこら灰だらけであるという記述があるが、火山灰がここまで降る積もることはめったにない。当時と現在とでは、山口旅館の配置や環境もかなり違っているのではないだろうか。


山口旅館の駐車場にたつ五足の靴碑。
 
      
14日朝、阿蘇山へ登り、中岳火口をのぞいてその迫力に驚く。
下山の際に案内人が道を間違え、やっとの思いで栃の木温泉に着き小山旅館に泊まり、15日に馬車で熊本へ戻る。
      
第二日は垂玉の温泉から噴火口を見に登つた。此(この)路は殆ど二里許り、別に珍しいものも無かつたが、蒼茫たる高原に馬と牛とが自由に駆け廻つてゐる様は快い眺めであった。路は分りよいさうだが予等は念の為め仮に「六蔵」と名付けた案内者を頼んだ。此(この)六蔵先生には後に酷(ひど)い目に合されたが、登りは先々無事で、千里が浜を通つて阿蘇本社の所在地に出、そこの茶店で中食して後、終に絶頂に達した。

まだ噴火口の見えないうちから、既に褐色の煙は濛々(もうもう)と空を横ぎつて、為めに日の色は紫で、砂は気味悪い黄色を呈してゐた。火口に近くに随つて硫黄の香は犇々(ひしひし)と逼つてくる。噴火口が見えるや否や、予等が心は猛獣の如くに荒くなつた。口を閉して皆黙々として驚駭(きょうがい)の目を瞠るのである。底を知らぬ不可思議なる大きな壺の口からは、灰色の煙がもくもくと洶(わ)き、渦き、廻り、淀んで、空高く斜めに流れてゆく。其(その)様が如何(いか)にも自覚と目的とが有るやうである。固(もと)より轟々(ごうごう)たる物音は分秒の休みなく喚(おめ)いてゐる、併(しか)し惘然(もうぜん)たる凝視の間に予等は稍(やや)此(この)光景に狎れた。


草千里から見た噴煙。火口近くへ行きたかったのであるが、この日は火山ガスが強くて登山禁止だった。
      
再び嚮の茶店に戻つて休憩し、将た渇望を満足したりなどして、また案内者六蔵を先に立てゝ、千里ヶ浜を横里、来た方とは違つた路を採つて湯の谷温泉へ下り始めた。山腹に立つて、大なる外輪山脉を眺めると、世紀末の今人でも、大きい古典的な情緒と、聯想とを起さずにはゐられなゐ。

比間に年寄りの夫婦が来て、道を知らぬから予等に随つて歩くのを許せといふ。そこで、漱石氏が「二百十日」式の、蓬々(ほうほう)たる茅生(かやふ)の間を歩むこと殆んど二時間許りであつた。此(この)山腹には、草といへば殆ど茅(かや)許(ばか)りだ。それも毎日降り積む霾の為めに下拙画工(へぼえかき)の雪中廬雁図(せっちゅうろがんず)の様に灰色にぼけている。
    
所が一行の某生が気付いたところによると、この路は決して湯の谷の方向を指すものではない。「どんべん山」を中心として目指す所寄りは九十度以上も余計に廻つてゐる。路は阿蘇村の方に行く矢うである。そこで予等は飢ゑて荒野に彷徨(さまよ)ひ漂浪者が旅人に出遇つたやうに、此(この)愚かな案内者を責めた。

案内者は恐縮して兎のやうに路なき所を駆け回つて路を探す。予等は益益困つた。恁(こ)んな風で予等に続いた老夫婦にまで飛んだ迷惑を掛けて、やつと湯の谷行の道を発見したときは、山を下り始めてから殆んど三時間半も過ぎた後であつた。

五足の靴一行は、草千里から西へ湯の谷温泉をめざしたが、間違って南へ向かったようだ。夏目漱石が「二百十日」の中で道に迷ったことを書いているが、五足の靴一行はそのことに思いをはせている。「二百十日」は明治39年(1906)10月、中央公論に発表された。五足の靴の旅の1年ほど前のことである。

湯の谷温泉は今はなく、阿蘇観光ホテルも廃墟となっている。

関連ページ 文学散歩/夏目漱石『二百十日』を歩く
 
 湯の谷温泉・阿蘇観光ホテル跡に残る建物。五足の靴一行は、これらの
 松の木を見ただろうか。

 
 現在の栃木温泉・小山旅館。
湯の谷で休んで暫し憤懣の気を緩くしたんのち、相議して、案内者には二十五銭だけ賃銀をやることにした。実際此(この)辺では過分な報酬なのか、それとも恐縮んに堪へなかつたのか「これぢゃあ多かありまッせむか」といひ乍(なが)ら手を出して、金を受取り、又兎の様に飄然(ひょうぜん)と去つて仕舞つた。

此(この)日午後の暑気は亦猛烈を極めたものだつた。予感は談笑しながら無益にも多大の期望を抱きつつ、夕の飯に馬肉を食はせられやうとは露しらずに、橡の木温泉に疲れた足を引摺つた。湯宿は一軒切りだ、而も入湯の客は百二十人も居る。座敷が無いので散髪宅と駄菓子屋とを兼ねた向ひの家の穢(きたな)い二階に泊まることゝ成つた。

五足の靴一行が栃木温泉で宿泊したのは小山旅館である。1991年5月24日、神戸在住の写友とここに泊まったことがある。かなり古い建物でいい雰囲気の旅館だった。旅館の露天風呂から鮎返りの滝が見えた。

ふたりで朝の露天風呂から見た滝の風景を今でもおぼえている。写友は1997年になくなった。
    


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