文学散歩

松本清張『火の路ひのみち

小説『火の路』の舞台・飛鳥をたずねる。

長編小説『火の路』は、1973年、朝日新聞朝刊に『火の回路』として発表され、1975年の単行本化の際に『火の路』と改められた。
ヒロイン高須通子の論文の形を借りて、古代日本に拝火教(ゾロアスター教)が伝来していたという松本清張の持論を展開する中で物語は進む。
雑誌の取材で飛鳥を訪れていたカメラマンの坂根要助は、奈良県明日香村の酒船石で、遺跡を真剣に観察する謎めいた女性に出会う。のちに 、彼女は国立T大文学部史学科の助手で、日本古代や上代史専攻の新進気鋭の学者・高須通子と分かる。

通子は、散歩中に奈良市の法華寺の近くで男が刺されているのに遭遇し、被害者と病院に向かう途中で坂根と再会する。通子と坂根は被害者への供血を申し出る。坂根は暴行事件を調べていくうちに、被害者がかつて有能な歴史学徒であった梅津信六であることを知る。

論文「飛鳥の石造遺物試論」を発表した通子のもとに、海津から供血の礼を兼ねた丁寧な感想が届いた。海津の自宅を訪ねての議論や文通でのやりとりによって自らの仮説を検証していく通子は、イラン行きへの思いを深める。・・・・


石造物の所在地。左から、益田岩船、猿石、亀石、二面石、酒船石。

明日香村の中心になっている町なみから南に行くと、人家の集まりがしばらく途切れてのち、岡の小さな商店街に入る。戸籍のように正統にいえば奈良県明日香村岡だが、岡寺のあるところとして通りがいい。

川原宮、岡本宮、浄御原宮、板蓋宮と、この道のどこかの位置にたたずむと、それらの旧址を眺望して身はひとりでに「飛鳥の古代」に包まれるしくみになっている。

田圃の向うには、これも冬枯れが残っている甘樫丘が見える。川原寺とは反対の北側には飛鳥寺の屋根が高い。飛鳥川が甘樫丘の裾から香久山の方へ流れているが、低いので平地からは水が見えない。

カメラマンの坂根要助は、明日香村役場観光課の杉井主任、雑誌「文化領域」の福原副編集長と酒船石へ向かう。


丘陵にある酒船石へ登る道。

大きな石が平地にすわっていた。厚さを見せたところが一メートルくらいの高さで、上部は細長い扁平だった。長さ五メートル、幅二メートルというのが目測で、上の平らな面には、楕円形と半円形の浅い穴が二つ、ならんでいた。

 

杉井に言われて、福原が石の傍に立っている立て札の文句を読んだ。
「史蹟酒船石。……岡寺より飛鳥寺に至る東の丘陵上にある石造物で長さ約五・三メートル……俗に酒船石と呼ばれ、酒船石あるいは
漕油石、辰砂(朱)の製造に用いた石などの説があるが明らかではない。昭和二年史蹟に指定された。……明日香村」

雑誌「史脈」六月号は
高須通子の「飛鳥の石造遺物試論」の稿を掲載した。
斉明紀によると、斉明天皇は明日香村の東にある多武峰に宮殿=両槻宮(ふたつきのみや)を建てることを計画した。
しかし、多大な費用がかかる工事への批判とその背景にある異宗教的なものへの非難から宮殿は完成しなかった。
宮殿へ供される予定だった石造物は、未完成のまま放置され邪魔者扱いにされ四散して行った。
石が巨大なので、その両側にそれぞれ作業する人が付いていたとする。その人たちが小さい沈殿所で何物かをつくり、これに溝で連絡する半円形から液体を受け、そこで液体に混じて何かが仕上げられる。

一方、半円形の液体は、中央の大きな沈殿所(小判形)を経て、中央の溝を伝い、下に設けた樋のような通路を穿った別の石によって(出水発見の同類石のように)、上から伝わってきたものを受けて石樋から流し、外部でそれを採取する。

酒船石はそういう機能ではなかったろうか。

酒船石は、ゾロアスター教の儀式に使用される幻覚剤「ハオマ酒」の製造につくられたものと高須通子と断言する。

 
 
(参考図)
高須通子は自論を続ける。

亀石は、亀のように見えるが、亀ではないほかの動物を作る途中で放棄されたもので、宗教崇拝における「犠牲動物」だったのではないか。

二面石や猿石は、斉明天皇の異宗教的な色彩が反映されたものではないか。



    

 



益田岩船のある丘卓上に立つと、北、東、南の三方が開け、東は右の平野や丘陵を越して、五九一メートルの多武峰頂上と相対する。
多武峰の頂上と益田岩船のある橿原市南法妙寺の岩船山(一四〇メートル)とが、東西にほぼ一直線にならんでいる。

高須通子は、益田岩船はゾロアスター教の拝火壇であり、斉明紀には両槻宮の場所を多武峰としているが岩船山にあったのではないかと考える。



1999年に酒船石のある丘のすぐ下で亀形石造物が発見された。ここが斉明天皇の両槻宮ではないかという説もある。
もし、『火の路』が亀形石造物発見以降に書かれていたとしたら、小説の展開に影響を与えていたのではないかと思う。


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