文学散歩

松本清張或る「小倉日記」伝

小説の舞台をたずねる。


     

(明治三十三年一月二十六日)
終日風雪。そのさま北国と同じからず。 風の一堆(いったい)の暗雲を送り来るとき、雪花翻(ひるがえ)り落ちて、天の一隅には却(かえ)りて日光の青空より洩れ出づるを見る。九州の雪は冬の夕立なりともいふべきにや。
(森鴎外「小倉日記」)

森鴎外の「小倉日記」は、明治三十二年六月十六日。午後六時新橋を発す。という文からはじまる。小倉にある師団の軍医部長として赴任するためである。

森鷗外、本名森林太郎は、6月19日に小倉に着いた。そして、明治35年3月26日に小倉を発ち、28日に新橋に到着している。「小倉日記」は、小倉滞在中の2年9ヶ月ほどの小倉での日々の出来事を書き記したものである。

行方不明だった森鷗外の「小倉日記」が東京で発見されたのは、昭和26年2月だった。そして、松本清張の『或る「小倉日記」伝』が三田文学に発表されたのは昭和27年、この作品は第28回芥川賞を受賞した。

   
北九州青年会議所創立25周年記念の松本清張文化講演会が、1977年11月1日に小倉市民会館で開催された。
入場料は無料だったと思うが、入場者全員に松本清張さんの直筆サイン入りの文庫本が配られた。
参加者は500人以上はいたと思うので、清張さんはサインをするのがたいへんだったのではないだろうか。
   
昭和十五年の秋のある日、詩人K・Mは未知の男から一通の封書をうけとった。差出人は、小倉市博労町二八田上耕作とあった。

Kは医学博士の本名よりも、耽美的な詩や戯曲、小説、評論などを多くかいて有名だった。南蛮文化研究でも人に知られ、その芸術は江戸情緒と異国趣味とを抱合した特異なものといわれていた。こうした文人に未知の者から原稿が送られてくることは珍しくない。

が、この手紙の主は詩や小説の原稿をみてくれというのではなかった。文意を要約すると、自分は小倉に居住している上から、目下小倉時代の森鷗外の事蹟を調べている。別紙の草稿は、その調査の一部だが、このようなものが価値あるものかどうか、先生にみていただきたい、というのであった。田上という男は当てずっぽうに手紙を出したのではなく、Kと鴎外との関係を知っての上のことらしかった。

Kは同じ医者である鴎外に深く私淑し、これまで「森鷗外」「鷗外の文学」「或る日の鷗外先生」など鴎外に関した小論や随筆をかなりかいてきていた。現に、その年の春、「 鷗外先生の文体」を雑誌「文学」に発表したばかりであった。

Kが興味を起したのは、この手紙の主が小倉時代の鷗外を調べているということである。鷗外は第十二師団軍医部長として、明治三十二年から丸三年間を小倉に送っているが、この時書いた日記の所在が現在不明になっている。これはKも編纂委員である岩波の「鴎外全集」が出るに当って、その日記篇に収録しようと、当時、百方手をつくして探したのだが、ついに分らなかった。世の鷗外研究家は重要な資料の欠如として残念がっていたものである。

この田上という男は丹念に小倉時代の鴎外の事蹟を探して歩くといっている。根気のいる仕事だ。四十年の歳月の砂がその痕跡を埋め、もはや、鷗外が小倉に住んでいたということさえこの町で知った者は稀だと、この筆者はいうのだ。当時、鷗外と交遊関係にあった者は皆死んでいる。だから、その親近者を探して鴎外に関した話が残っていれば聞こうというのだった。実際の例が書いてある。読んでみて面白かった。研究も草稿も途中のものである。完成させたらかなりのものができそうに思えた。文章もしっかりしていた。

彼は五、六日して返事を書いて出した。五十五歳のK・Mは相手の青年であることを意識して、充分激励をこめた親切な手紙であった。
それにしても、この田上耕作という男は、どのような人物であろうかと、彼は思ったことである。

田上耕作は明治四十二年、熊本で生れた。
明治三十三年頃、熊本に国権党という政党があり、大隈の条約改正に反対して結成された国粋党であるが、佐々友房が盟主で当時全国的にも有名であった。この党員に白井正道という者がいて、佐々と共に政治運動に一生を送った。

白井には、ふじという娘がいた。美しいので評判であった。あるとき熊本にきた若い皇族の接待役を水前寺庭園につとめたが、林間の小径を導くふじの容姿は、いたく若い宮の心を動かした。宮は帰京すると、ぜひあの娘を貰ってくれと言い出して、側近を愕かせたと、今でも熊本に話が残っている。

ふじの美しさは年と共にあらわれて、縁談は降るようにあった。いずれも結構な話だった。が、白井の政党的な立場から考えて、どれもまとまらなかった。つまり一方を立てれば、他方の義理がすまぬというわけだ。白井が自分の甥の田上定一にふじをめあわせたのは全く窮余の結果であった。これなら、どこからも恨みを買うことはなく、彼は諸方への不義理を免れた。田上定一にとっては、ふじのような美人を得たことは、いわば漁夫の利といえないこともなかった。

二人は結婚して一男を生んだ。これが田上耕作である。明治四十二年十一月二日生と戸籍に届けた。
この子は四つになっても、何故か、舌が廻らなかった。五つになっても、六つになっても、言葉がはっきりしなかった。口をだらりと開けたまま涎をたらした。その上、片足の自由がきかず、引きずっていた。
   

夫に先立たれた田上ふじは、生まれつき身体が不自由な息子・耕作を女手ひとつで育ててきた。
ある日、耕作は同級生の紹介で小倉に住む白川病院院長の蔵書を整理することになり、森鷗外の日記のうち軍医として小倉に赴任していた3年分が紛失していることを知る。耕作は、 鷗外の小倉での3年間の空白を埋めることを自分の使命と考え、鷗外の足跡を辿り、鷗外ゆかりの人物を訪ね歩いた。10年以上を費やしてもさしたる成果は得られず、病気と貧困に苦しみながら、昭和25年に41歳で亡くなった。
皮肉なことに、その翌年の昭和26年、森鷗外の「小倉日記」が東京で発見される。

   
●旧小倉市博労町付近。 10/1/22 PENTAX K-x
田上定一は白井の世話で、門司を基点とする九州鉄道に入社し、耕作が5歳のときに小倉の博労町に移り住んだ。
父定一は、耕作が10歳のときに病死した。
耕作は誰が見ても白痴のように思えたが、学校の成績は級中のどの子よりもよかった。
博労町は小倉の北端で、すぐ前は海になっていた。海は玄海灘につづく響灘だ。家には始終荒浪の音がしていた。耕作はこの浪の響をききながら育った。
北九州市小倉北区には博労町という地名は残っていないが、砂津川の河口付近ではないかと思う。

現在は埋め立てられているが、かつては海がもっと近かったのではないだろうか。

河口付近には、鹿児島本線や山陽新幹線の鉄橋や国道199号線があり、その喧騒で波音は全く聞こえない。

←砂津川河口
 目を引くのは住友金属小倉の煙突。
   
●三岳(みつたけ)・護聖寺 (ごしょうじ) 10/1/22 PENTAX K-x
耕作は、鷗外が小倉時代を題材にした「二人の友」に”安国寺さん”として登場する玉水俊虓(しゅんこ)の縁故者の有無を、西谷村役場に問い合わせ、未亡人の玉水アキが健在であることを知る。耕作はアキの住む三岳をたずねる。
鷗外のいう”小倉に近い山の中”といっても、そこは4里以上あった。二里のところまではバスが通うが、それから奥は山道の徒歩である。
バスを降りてからの山道はひどかった。そのうえ、一里以上は歩いたことのない耕作にとって普通人の十里以上にも相当した。
三岳部落は袋のような狭い盆地にあった。白壁と赤瓦の家が多いのは、北九州には珍しかった。裕福な家が多いと見え、どこの構えも大きい。山腹に寺門が見えるのが護聖寺であった。耕作は今でもその屋根の下に”安国寺さん”が住まっているような気がして、しばらく立ち止まって見入った。
玉水アキは不在だった。がっかりして帰ってきた耕作を見て、ふじは翌日人力車を2台雇って耕作に同行する。
アキは、鷗外が小倉にいるころは嫁に来る前だったが、結婚後、夫から鷗外のことについていろいろ聞いていた。


西谷村は現在は北九州市小倉南区であるが、三岳という名は残っていて護聖寺も現存している。

今も白壁と赤瓦の家が多い。清張さんが取材に訪れた60年前と
あまり変わっていないのではないだろうか。

護聖寺 への坂道から集落を振り返る。
   
    

曹洞宗護聖寺 は応永23年(1416)の創建。
墓所には玉水俊虓和尚の墓もある。

護聖寺の前の坂道を登り切ったところに三岳梅林がある。
あと1か月もすれば梅見客でにぎわうことだろう。
   
●広寿山福聚寺 10/1/22 PENTAX K-x
ある日、耕作が久しぶりに白川病院に行くと、一人の看護婦が、なれなれしそうに近づいてきた。山田てる子という目鼻立ちのはっきりした娘だった。

「田上さんは森鷗外のことを調べているって先生がおっしゃたけど、本当なの?」ときいた。てる子の話は耳よりだった。何でも自分の伯父は広寿山の坊主だが、鷗外がよく遊びに来たことを話していた。行ってたずねれば何か面白いことがわかるかもしれない、というのだ。

耕作はにわかに青空を見たように元気づいた。

「あなたが行く時、わたしが案内するわ」と、てる子は言ってくれた。

耕作は期待を持った。広寿山というのは小倉の東に当たる山麓の寺で福寿禅寺といった。旧藩主の菩提寺で、開基は黄檗の即非である。鷗外は小倉時代に「即非年譜」というのを書いているから、よく広寿山を訪れたかもしれない。

それは暖かい初冬の日だった。耕作は山田てる子と連れ立って広寿山に登った。歩行の緩(のろ)い耕作にてる子は足を合わせて、よりそった。林の中に寺があり、落葉を焼く煙が木立の奥から流れていた。

耕作は32歳になっていたが、耕作のところへ嫁に来るものはいなかった。母ふじはそのことで心を痛めていた。
そんなときにはあらわれたてる子はふじにとって大きな希望だったが、耕作と結ばれることはなかった。

小倉北区の足立山麓にある黄檗宗の古刹・広寿山福聚寺は、寛文5年(1665)小倉藩初代藩主の創建。

総門(黒門)が福寿寺の正門であり、こちらの門はのちに造られたものであろう。今はこの門が正門の役割を果たしている。
    

総門(黒門)。正面の扁額「第一関」は初代住職即非和尚の書。

仏殿(本殿)は享和2年(1802)再建。扁額「吉祥寶殿」は即非和尚の書。

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