文学散歩

松本清張『

小説『陸行水行』の舞台をたずねる。
2008/1/15 *istD


安心院町家族旅行村の亀の井ホテル前に松本清張邪馬台国小説文学碑がある。

九州の別府から小倉方面に向かって約四十分ばかり汽車で行くと、宇佐という駅に着く。宇佐神宮があるので有名な町だ。

この宇佐駅からさらに北へ向かって三つ目に豊前善光寺という駅がある。そこから南のほう、つまり山岳地帯に支線が岐れていて四日市という町まで行っている。この辺は山に囲まれた所で、さらに南へ行けば、九州アルプスの名前で通っている九重高原に至る。四日市の駅で降りると、バスは山路の峠を走るが、その峠を越すと、山峡が俄かに展けて一望の盆地となる。早春の頃だと、朝晩、盆地には霧が立籠め、墨絵のような美しい景色となる。

ここの地名は安心院と書いてアジムと読ませる。正確には大分県宇佐郡安心院町である。


昭和37年(1962)に書かれた『陸行水行』は、このような書き出しで始まる。豊前善光寺から南への鉄道は大分交通豊州線のことで、昭和28年(1953)にすでに廃止されていた。

  『陸行水行』は文庫本にして67ページの短編であるが、松本清張の代表作の一つと言えよう。
東京の大学で歴史科の講師をしている私は、「宇佐の研究」のため安心院の妻垣神社へやって来る。そこで出会った愛媛県の村役場の浜中浩三という人物と名刺を交換する。浜中は古代史を研究していて、邪馬台国についての持論を展開し、不弥国の遺跡であるとして豊前四日市洞窟史蹟へ私を案内する。

浜中説の邪馬台国への道程は次の通り。末慮国(佐賀県呼子)から東南500里で伊都国(福岡県朝倉)、東南100里で奴国(大分県豊後森)、東100里で不弥国(大分県安心院)。不弥国から南水行二十日で投馬国(大分県臼杵)、さらに南水行十日で 宮崎県佐土原辺りに上陸し、陸行一月で宮崎県と鹿児島県の中間にある邪馬台国へ。

浜中と安心院で出会ってから半年位して、邪馬台国に興味を持っているという兵庫県の未知の人から私へ手紙が届く。「浜中浩三氏から私の名刺を見せられ、邪馬台国の論文を掲載する費用として2万円を支払った。その後、論文の原稿を浜中氏に送ったが何の返事もなく、村役場へ問い合わせたところ浜中氏は行方不明とのこと、浜中氏について何かご存知ありませんか」という趣旨だった。岡山県や鳥取県からも同様の内容の手紙が届いた。

その後、大分県から手紙が届く。「醤油屋をしている主人が浜中浩三さんという人と邪馬台国を調べに行くと出て行ってから1ヶ月半がすぎた。警察へは捜索願を出すつもりだが、浜中さんがどのような人物なのかお返事をいただきたい」という内容だった。そして、しばらくして、醤油屋の妻から 「主人と浜中さんの死体が国東半島の富来に漂着した」という手紙が届く。
   
妻垣神社

安心院盆地に立つ一柱謄宮(いっちゅうとうぐう)の標柱。
   
この盆地を東南に当たる山裾に辿り着いた所が妻懸部落である。

このあたりは農家が点在しているが、その中に妻垣神社というのがある。現在の地名になっている妻懸は妻垣の転訛だということが分かる。この神社は大へんに古い。今は小高い所に小さな社と、玉垣をめぐらした境内とがあるが、森を隔てた所には神宮皇学館が遺っている。


かつて、神社の隣に謄宮学館という教員養成や神職研修を行う学校があったが、昭和38年(1963)で廃校となり、今は空き地。
松本清張氏が安心院に取材に来たときには、まだ学校があった。


←「一柱謄宮」とは、『古事記』に出てくる「一本足のお宮」のことだそうだが、古代にそのようなお宮があったとされている。一柱謄宮を宇佐神宮とする説もある 。
 

妻垣神社社殿の朱色が美しい。
   

謄宮学館之跡と書かれた石碑。
   
ようやく坂を途中まで登ったところで、やや広い棚地に出た。
そこには、粗末な木で囲った垣の中に古い石が一個ぽつんと置かれてあった。石は苔に蔽われて暗鬱な色を呈していた。
実は、これがこの神社の神体なのだ。
という一節がある。この石の前で後から坂を登ってきた浜中浩三と出会う。
この石を探したが坂の途中では見つからなかった。この石が、実在のものなのか創作なのか、定かではない。
この神社ではふたつ石を見た。ひとつは「龍の駒、足形石」で、この石があった場所が崩落の恐れがあるので境内に移設されていた。
もうひとつは、神社から山道を350mほど登った磐座(いわくら)にある石で、これが小説にある石に近いが場所が全く違っている。
     
   
●四日市横穴群

屋根の下には壁に彩色のある横穴が保存されている。
「ここは豊前四日市洞窟史蹟という名がついていますがね。この下から、打製石器や磨製石器がごろごろ出てきたのです。縄文土器の破片も数個発見されています」
「やっぱり住居址ですか」
「そうだと思います。あまり沢山は居なかったようですがね。もっとも、横穴の形式だから、墳墓の址だろうという説もありますが、それにしても羨道(せんどう)の形式がありません。やっぱり人の住んだ所でしょうね」
「ここが『魏志倭人伝』とどういう関係があるのですか?」
「わたしは、安心院の地形と、菟狭川(うさがわ)の上流に位した現在の四日市の地形からみて、この峠の要害を擁する見張り所みたいな址だと思います」


豊前四日市洞窟史蹟は、四日市横穴群を想定しているのではないだろうか。四日市横穴群は古墳時代末期、西暦600年頃の共同墓地とされ、卑弥呼の時代よりもずっと新しい。現在、百数十穴 が確認されている。
   
●駅館川

駅館川河口付近。正面が長洲。
浜中浩三と醤油屋の主人は、不弥国(安心院)から水行二十日を実際に試みたのである。この二人は四日市から駅館川に沿って、舟の速度を想定し、途中何日か泊まり、ようやく海岸の長洲あたりに出た。そこから小さな漁船を買入れたのであろう。彼らは長洲から船出して、次の水行十日、陸行一月の旅路に入ったのだ。

だが、船が国東半島の突端を曲がり、『古事記』にいう速吸瀬戸にさしかかったころ、激しい潮流と荒波とが木の葉のような船を襲って転覆させたのではないだろうか。


「彼らは長洲から船出して、次の水行十日、陸行一月の旅路に入ったのだ」とあるが、浜中浩三の説に従えば長洲はまだ水行二十日の途中であり、臼杵から先が水行十日、陸行一月でなければならない。

 


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