文学散歩

与謝野晶子の堺を歩く

晶子生誕の地に歌碑をたずねる。
06/10/19 *istD


与謝野晶子は、明治11年(1978)大阪府堺市の老舗和菓子屋「駿河屋」の3女として生まれた。宿院尋常小学校に通っていた頃、9歳で漢学塾に入り、琴、三味線も習った。堺女学校(現大阪府立泉陽高等学校)に入学し『源氏物語』など古典に親しんだ。

父親はしっかり者の晶子を頼りにし、晶子は店の手伝いのかたわら短歌を詠んだ。「駿河屋のいとはんは店番しながら本ばっかり読んでる。変わったいとはんや」と噂された。

明治33年(1900)に与謝野鉄幹主宰の『明星』に短歌を発表。翌34年、晶子23歳、処女歌集『みだれ髪』を刊行。浪漫的な情趣をたたえた「明星調」は当時の青年層から熱狂的に支持された。

←生家跡の歌碑
海こひし潮の遠鳴りかぞえへつヽ少女となりし父母の家
   
●生家跡
晶子が生まれたのは、かつての紀州街道、阪堺電車が走る「宿院」の交差点の西側を北へ約150m行ったあたりである。生家跡には、「駿河屋」が描かれた説明板と横長の大きな歌碑が立っている。

阪堺線が浜寺まで全通したのが1912年、晶子34歳のときで、晶子が生まれた頃には電車は走っていなかった 。生家がいつまでここのあったのかは分からないが、晶子は後に阪堺電車を目にしたことだろう。


 関連サイト 堺(名作のふるさと)



   
    

   

●泉陽高等学校


堺女学校、現在の
泉陽高等学校が晶子の出身校。

校舎の裏庭に、「君死にたまふことなかれ」の詩碑があるそうだが、校門から中へ入りにくくて、見れなかった。

 あゝおとうとよ、君を泣く
 君死にたまふことなかれ
 末に生まれし君なれば
 親のなさけはまさりしも
 親は刃をにぎらせて
 人を殺せとをしへしや
 人を殺して死ねよとて
 二十四までをそだてしや



 

 
   
●覚応寺
泉陽高等学校のすぐ北に覚応寺がある。
当寺の住職河野鉄南は、文学仲間の与謝野晶子と鉄幹を引き合わせた人で、格子戸を開けると目の前に歌碑がある。
毎年5月29日晶子の命日に白桜忌が開かれている。
 その子はたちくしにながるヽくろかみのおごりの春
 
 
     
●浜寺
明治33年(1900)大坂へ来ていた与謝野鉄幹を訪ねた晶子は、夕方、ふたりで浜寺の松林を散策したという。

浜寺公園にはちょっと変わった形の晶子歌碑がある。
ふるさとの和泉の山をきはやかに浮けし海より朝風ぞ吹く
歌碑近くには、大久保利通の惜松碑(明治31年建立)がある→
   

惜松碑。
大久保利通が浜寺の松が伐採されるのを惜しみ短歌を詠んだ。これがきっかけで浜寺の松は伐採を免れた。
音に聞く高師濱のはま松も世のあだ波はのがれざりけり
   

浜寺公園から東を見ると手前に阪堺電車の終点浜寺駅前駅がある。
道路の先には南海電鉄の浜寺公園駅が見える。晶子たちは、すでに
開通していたこの駅で降りたのではないだろうか。

浜寺公園駅は明治40年(1907)に現在の建物に改築され、名称も浜寺駅から浜寺公園駅に変更された。素晴らしい建物で、国の登録有形文化財となっている。


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