文学散歩

堀辰雄『大和路』

紀行『大和路』の舞台をたずねる。
2006/10/10-11 *istD


浄瑠璃寺。池をはさんで三重塔を見る。
筆者がはじめて堀辰雄の作品に出会ったのは、ラジオの大学受験講座だった。「浄瑠璃寺の春」が文学鑑賞の題材として取り上げられていて、朗読するアナウンサーの軽やかな声が心地よかった。

特に印象に残っているのは下記の一節である。

この春、僕はまえから一種の憧れをもっていた馬酔木の花を大和路のいたるところで見ることができた。

……さっき、坂の下の一軒家のほとりで水菜を洗っていた一人の娘にたずねてみると、「九体寺やったら、あこの坂を上りなはって、二丁ほどだす」と、そこの家で寺をたずねる旅びとも少くはないと見えて、いかにもはきはきと教えてくれた……


大和路には何度も出かけているが、今回は、堀辰
雄を少し意識して歩いてみた。
   
■唐招提寺
いま、唐招提寺の松林のなかで、これを書いている。けさ新薬師寺のあたりを歩きながら、「城門のくづれてゐるに馬酔木かな」という秋桜子の句などを口ずさんでいるうちに、急にもたまらなくなって、此処に来てしまった。いま、秋の日が一ぱい金堂や講堂にあたって、屋根瓦の上にも、めかかった古い円柱にも松の木の影が鮮やかに映っていた。それがたえず風にそよいでいる工合は、いうにいわれないやかさだ。此処こそは私達のギリシアだ――

堀辰雄が唐招提寺をたずねたのは、1941年10月11日である。唐招提寺はお気に入りの場所だったらしく、その後何度かたずねているようだ。1941年といえば12月に日米開戦となった年、世界が騒然としつつある頃に、堀辰雄は何とものんびりとした時をすごしている。

筆者がたずねたのは2006年10月11日。奇しくも同じ月日、堀辰雄がたずねた日から丸65年後だった。残念ながら、国宝の金堂が平成大修理に入っていて、美しいその姿を見ることができなかった。

   
 
 
南大門の朱の柱と敷石。


境内唯一の重層建築・舎利殿と長大な僧房・礼堂東室。

 
 
鑑真和上御廟前の静かな道。門を入ると正面に御廟が見える。
   

■海竜王寺


午後、海竜王寺にて

天平時代の遺物だという転害門(てがいもん)から、まず歩き出して、法蓮というちょっと古めかしい部落を過ぎ、僕はさもいい気もちそうに佐保路(さおじ)に向い出した。

此処、佐保山のほとりは、その昔、―― ざっと千年もまえには、大伴氏などが多く邸宅を構え、柳の並木なども植えられて、その下を往来するハイカラな貴公子たちに心ちのいい樹蔭をつくっていたこともあったのだそうだけれど、―― いまは見わたすかぎり茫々(ぼうぼう)とした田圃(たんぼ)で、その中をまっ白い道が一直線に突っ切っているっきり。秋らしい日ざしを一ぱいに浴びながら西を向いて歩いていると、背なかが熱くなってきて苦しい位で、僕は小説などをゆっくりと考えているどころではなかった。漸っと法華寺村に着いた。

天害門は東大寺の境内の西北にある奈良時代の建物で国宝。
天害門から真西に佐保路と呼ばれる古くからの道があり、
天害門から海竜王寺までは約3km。
関連ページ 万葉の旅・佐保路
 
 天害門。 2002/5/30 CAMEDIA
村の入口からちょっと右に外れると、そこに海竜王寺という小さな廃寺がある。そこの古い四脚門の陰にはいって、思わずほっとしながら、うしろをふりかえってみると、いま自分の歩いてきたあたりを前景にして、大和平一帯が秋の収穫を前にしていかにもふさふさと稲の穂波を打たせながら拡がっている。僕はまぶしそうにそれへ目をやっていたが、それからふと自分の立っている古い門のいまにも崩れて来そうなのに気づき、ああ、この明るい温かな平野が廃都の跡なのかと、いまさらのように考え出した。

佐保路は車も通れるまっすぐな道で、関西本線の踏切を越えた先で右に曲がると海竜王寺である。今は人家が密集しているが、当時は人家も少なく田んぼが広がっていたことだろう。

当時の海竜王寺は廃寺で荒れ果てていたようだ。
731年に光明皇后の発願によって開基された由緒あるお寺で、西金堂内の高さ4mの五重小塔は国宝に指定されている。
現在は無住ではなく拝観料を徴収しているが、『大和路』にこの寺が掲載されていなければ、ここへ来ることはなかっただろうと思う。

 
  四脚門の向こうに入口が見える。

私はそれからその廃寺の八重葎(やえむぐら)の茂った境内にはいって往って、みるかげもなく荒れ果てた小さな西金堂(これも天平の遺構だそうだ……)の中を、はずれかかった櫺子(れんじ)ごしにのぞいて、そこの天平好みの化粧天井裏を見上げたり、半ば剥落した白壁の上に描きちらされてある村の子供のらしい楽書を一つ一つ見たり、しまいには裏の扉口からそっと堂内に忍びこんで、磚のすき間から生えている葎までも何か大事そうに踏まえて、こんどは反対に櫺子の中から明るい土のうえにくっきりと印せられている松の木の影に見入ったりしながら、そう、――もうかれこれ小一時間ばかり、此処でこうやって過ごしている。女の来るのを待ちあぐねている古の貴公子のようにわれとわが身を描いたりしながら。


今でも荒れ寺の雰囲気がただよっている。


西金堂。堀辰雄は「みるかげもなく荒れ果てた」と表現している。


国宝の五重小塔。模型の五重塔では現存最古。

 
海竜王寺のすぐ近くに法華寺があるが、堀辰雄は法華寺には立ち寄らずに、北西にある歌姫という集落をたずねている。

僕はすこし歩き疲れた頃、やっと山裾の小さな村にはいった。歌姫という美しい字名だ。こんな村の名にしてはどうもすこし、とおもうような村にも見えたが、ちょっと意外だったのは、その村の家がどれもこれも普通の農家らしく見えないのだ。大きな門構えのなかに、中庭が広くとってあって、その四周に母屋も納屋も家畜小屋も果樹もならんでいる。そしてその日あたりのいい、明るい中庭で、女どもが穀物などを一ぱいに拡げながらのんびりと働いている光景が、ちょっとピサロの絵にでもありそうな構図で、なんとなく仏蘭西あたりの農家のような感じだ。

関連ページ 万葉の旅・歌姫越え
 
 歌姫集落の民家。 2011/2/27 K-7
■秋篠寺 1994/11/16 CANON T 90

午後、秋篠寺にて

いま、秋篠寺という寺の、秋草のなかに寐そべって、これを書いている。いましがた、ここのすこし荒れた御堂にある伎芸天女の像をしみじみと見てきたばかりのところだ。このミュウズの像はなんだか僕たちのもののような気がせられて、わけてもお慕わしい。朱い髪をし、おおどかな御顔だけすっかり香にお灼けになって、右手を胸のあたりにもちあげて軽く印を結ばれながら、すこし伏せ目にこちらを見下ろされ、いまにも何かおっしゃられそうな様子をなすってお立ちになっていられた。……

此処はなかなかいい村だ。寺もいい。いかにもそんな村のお寺らしくしているところがいい。そうしてこんな何気ない御堂のなかに、ずっと昔から、こういう匂いの高い天女の像が身をひそませていてくだすったのかとおもうと、本当にありがたい。


秋篠寺東門。正門は南門であるが、乗用車の駐車場が東側にあるので
観光バスの乗客以外はほとんど東門から入るようだ。


秋篠寺本堂。鎌倉時代の建築。
伎芸天立像は本堂の左寄りに安置されている。

■法隆寺
きょうはめずらしくのんびりした気もちで、汽車に乗り、大和平をはすに横ぎって、佐保川に沿ったり、西の京のあたりの森だの、その中ほどにくっきりと見える薬師寺の塔だのをなつかしげに眺めたがら、法隆寺駅についた。僕は法隆寺へゆく松並木の途中から、村のほうへはいって、道に迷ったように、わざと民家の裏などを抜けたりしているうちに、夢殿の南門のところへ出た。そこでちょっと立ち止まって、まんまえの例の古い宿屋をしげしげと眺め、それから夢殿のほうへ向った。

斑鳩も堀辰雄の好んだ場所で、何度かたずねている。当時は、金堂壁画の模写なども見学が出来たようだが、拝観料は徴収していなかったのではないだろうか。

堀辰雄が興味を示したのは、夢殿南門前の古い宿屋である。この宿屋は、高浜虚子の『斑鳩物語』で出てくる宿屋で、 虚子が『ホトトギス』に『斑鳩物語』を掲載したのは、明治40年(1907)、33歳のときだった。虚子はその冒頭で下記のように書いている。虚子はこの宿からの眺望が大変気に入ったらしく「意外の獲物」という表現をしている。

法隆寺の夢殿の南門の前に宿屋が三軒ほど固まつてある。其の中の一軒の大黒屋といふうちに車屋は梶棒を下ろした。急がしげに奥から走つて出たのは十七八の娘である。色の白い、田舎娘にしては才はじけた顔立ちだ。手ばしこく車夫から余の荷物を受取つて先に立つ。廊下を行つては三段程の段階子を登り又廊下を行つては三段程の段階子を登り一番奥まつた中二階に余を導く。小作りな体に重さうに荷物をさげた後ろ姿が余の心を牽く。

荷物を床脇に層いて南の障子を広々と開けてくれる。大和一円が一目に見渡されるやうないゝ眺望だ。余は其まゝ障子に凭れて眺める。

此の座敷のすぐ下から菜の花が吹き続いて居る。さうして菜の花許りでは無く其に点接して梨子の棚がある。其梨子も今は花盛りだ。黄色い菜の花が織物の地で、白い梨子の花は高く浮織りになつてゐるやうだ。殊に梨子の花は密生してゐない。其荒い隙間から菜の花の透いて見えるのが際立つて美くしい。共に処々麦畑も点在して居る。偶々灯心草を作つた水田もある。梨子の花は其等に頓着なく浮織りになつて遠く彼方に続いて居る。半里も離れた所にレールの少し高い土手が見える。其土手の向うもこゝと同じ織り物が織られてゐる様だ。法隆寺はなつかしい御寺である。法隆寺の宿はなつかしい宿である。併し其の宿の眺望がこんなに善かろうとは想像しなかった。これは意外の獲物である。
 
  法隆寺夢殿南門。

 
  大黒屋。昔の建物は今は使われていないそうだ。


法隆寺中門と五重塔。左手前に世界遺産の大きな石碑。

 
  法隆寺の西端、正面に西円堂が見える。筆者の好きな場所。
     
■浄瑠璃寺
この春、僕はまえから一種の憧れをもっていた馬酔木の花を大和路のいたるところで見ることができた。

そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へいたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、っとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。

最初、僕たちはその何んの構えもない小さな門を寺の門だとは気づかずに危く其処を通りこしそうになった。その途端、その門の奥のほうの、一本の花ざかりの緋桃の木のうえに、突然なんだかはっとするようなもの、――ふいとそのあたりをったこの世ならぬ美しい色をした鳥の翼のようなものが、自分の目にはいって、おやと思って、そこに足を止めた。それが浄瑠璃寺の塔のついた九輪だったのである。

なにもかもが思いがけなかった。――さっき、坂の下の一軒家のほとりで水菜を洗っていた一人の娘にたずねてみると、「九体寺やったら、あこの坂を上りなはって、二丁ほどだす」と、そこの家で寺をたずねる旅びとも少くはないと見えて、いかにもはきはきと教えてくれたので、僕たちはそのかなり長い急な坂を息をはずませながら上り切って、さあもうすこしと思って、僕たちの目のまえに急に立ちあらわれた一かたまりの部落とその菜畑を何気なく見過ごしながら、心もち先きをいそいでいた。あちこちに桃や桜の花がさき、一めんに菜の花が満開で、あまつさえ向うの藁屋根の下からは七面鳥のきごえさえのんびりと聞えていて、――まさかこんな田園風景のまっただ中に、その有名な古寺が――はるばると僕たちがその名にふさわしい物古りた姿を慕いながら山道を骨折ってやってきた当の寺があるとは思えなかったのである。……


浄瑠璃寺は京都府にある寺である。筆者も奈良の寺と錯覚しがちであるが、堀辰雄はごく自然に『大和路』にこの寺を掲載している。この寺は県道の坂の頂上付近にあり、堀辰雄は岩船寺のある東側から坂を登って来たのではないだろうか。
 
  浄瑠璃寺参道。寺は県道からかなり奥まった位置にある。

  
   九体仏が安置されている浄瑠璃寺本堂。


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