シネマ紀行
 八甲田山
 ロケ地〜青森市 2015/10/13-14 取材

 1977年 橋本プロ+東宝+シナノ企画 1 69分
[監督]森谷司郎 助監督:神山征二郎
[原作]新田次郎「八甲田山死の彷徨」
[脚本]橋本忍、野村芳太郎、田中友幸
[撮影]木村大作
[音楽]芥川也寸志
[出演]高倉健、北大路欣也、加山雄三、三國連太郎、島田正吾、大滝秀治、丹波哲郎、小林桂樹、藤岡琢也、森田健作、神山繁、緒形拳、
     栗原小巻、加賀まりこ、秋吉久美子、菅井きんなど超豪華キャスト

「冬の八甲田山を歩いてみたいと思わないか」と友田旅団長(島田正吾)から声をかけられた二人の大尉、
青森第五連隊の神田大尉(北大路欣也)と弘前第三十一連隊の徳島大尉(高倉健)は全身を硬直させた。

日露戦争開戦を目前にした明治三十四年末。
第四旅団指令部での会議で、露軍と戦うためには、雪、寒さについて寒地訓練が必要であると決り、冬の八甲田山がその場所に選ばれた。
二人の大尉は責任の重さに慄然とした。雪中行軍は、双方が青森と弘前から出発、八甲田山ですれ違うという大筋で決った。

年が明けて明治三十五年(1902)一月二十日。
徳島隊は、わずか三十七名の編成部隊で弘前を出発。
行軍計画は、徳島の意見が全面的に採用され、隊員はみな雪になれている者が選ばれた。
出発の日、徳島は神田に手紙を書いた。それは、我が隊が危険な状態な場合はぜひ援助を……というものであった。

一方、神田大尉も小数精鋭部隊の編成をもうし出たが、大隊長山田少佐(三國連太郎)に拒否され二百十名という大部隊で青森を出発。
神田の用意した案内人を山田がことわり、いつのまにか随行のはずの山田に隊の実権は移っていた。
神田の部隊は、低気圧に襲われ、磁石が用をなさなくなり、白い闇の中に方向を失い、次第に隊列は乱れ、狂死するものさえではじめた。

一方徳島の部隊は、女案内人(秋吉久美子)を先頭に風のリズムに合わせ、八甲田山に向って快調に進んでいた
体力があるうちに八甲田山へと先をいそいだ神田隊。耐寒訓練をしつつ八甲田山へ向った徳島隊。
狂暴な自然を征服しようとする二百十名、自然と折り合いをつけながら進む三十七名。
しかし八甲田山はそのどちらも拒否するかのように思われた。

二十七日、徳島隊はついに八甲田に入った。
天と地が咆え狂う凄まじさの中で、神田大尉の従卒の遺体を発見。神田隊の遭難は疑う余地はなかった。
徳島は、吹雪きの中で永遠の眠りにつく神田と再会。その唇から一筋の血。それは、気力をふりしぼって舌を噛んで果てたものと思われた。
第五連隊の生存者は山田少佐以下十一名。のちに山田少佐は拳銃自殺。徳島隊は全員生還。しかし、二年後の日露戦争で、全員が戦死した。
映画.COMより引用


八甲田山雪中行軍遭難資料館に展示されている雪中行軍のルート。
青森第五連隊は八甲田山の北側を南下して田代新湯にむかう1泊2日の行軍。
映画では三本木までの2泊3日となっていたし、2泊3日とする資料がほとんどであるが、資料館の展示はなぜ1泊2日なのだろうか。
弘前第三十一連隊は、十和田湖の南湖畔に沿って進み、三本木に出て、田代へ。田代から青森を経由して弘前へ戻る11泊の240kmの長距離行軍。雪の八甲田で青森第五連隊と出会うためにはこのような迂回ルートしかない、と徳島は上司に説明している。


青森第五連隊のルートは、現在の県道40号線とほぼ重なっていると思われる。しかし、冬の八甲田では積雪で道は見えな い。
遭難が発生したのは馬立場付近で、田代への道が分からず、青森第五連隊は210名のうち199名が死亡した。
弘前第三十一連隊は37人全員無事だった。
 


青森第5連隊の行軍ルート。


大峠から見た紅葉した八甲田の山並み。初冠雪していた。
 

この映画は雪の中での撮影が大部分を占めている。そのロケ地を特定し、そこをたずねるのは困難である。
したがって、事件が発生した現実の場所とからませて掲載したが、取材不足で不十分な内容になってしまった。


弘前の第四旅団司令部で、青森五連隊と弘前三十一連隊の幹部が集まり会議が開かれ、雪中行軍を実施することが決定する。


第四旅団司令部としてロケされたのが青森市森林博物館

明治41年、旧林野庁青森営林局の庁舎として建造されたもので、ルネサンス様式の美しい建物である。

会議が行われたのは、2階の旧営林局長室。

おとずれたのが月曜日で閉館日であったため、会議室としてロケされた部屋を見ることができなかった。


1日目、田代への道が分からず、やむなく露営する。
馬立場から田代方面へ進んだ平沢で、田代まで1.2kmであった。


2日目、帰営を決定するが、帰り道が分からず再び露営する。
それが鳴沢で、平沢から徒歩10分ほど青森方へ戻ったところである。

平沢で露営したあとの2日目の行軍は14時間に及んだが帰路が見つからず、700mほど進んだだけだった。
前日よりの不眠不休で絶食状態であったため、鳴沢では最も多くの凍死者を出した。

3日目、部隊を解散し、自ら進路を見出して青森または田代へ進行するようにという命令が出された。


3日目の露営地は、馬立場から青森方へ少し戻った地点だった。
それが中の森で、馬立馬への勾配を上る途中にある。


後藤伍長(新克利)発見の地。神田大尉もこのあたりで発見された。
馬立場から青森方に5kmくらい戻った地点である。


後藤伍長発見の地付近の県道40号線。このあたり、冬は雪で埋もれてしまう。
救援隊によって5日目に発見された後藤伍長は、目を開けたまま仮死状態で歩哨のように立っており、救急処置によって一時蘇生した。
遭難の2年後の明治37年(1904)、八甲田山が見える馬立場の丘に後藤伍長をかたどった記念碑が建てられた。


歩兵第5連隊八甲田山遭難記念碑の台座には、遭難者199名の姓名が刻まれている。

  

原作者の新田次郎は、「八甲田山死の彷徨」の結びのところで次のように書いている。
この遭難事件は日露戦争を前提として考えねば解決しがたいものであった。
装備不足、指揮系統の混乱、未曽有の悪天候などの原因は必ずしも真相を衝くものではなく、
やはり、日露戦争を前にして軍首脳部が考え出した、寒冷地における人間実験がこの悲惨事を生み出した最大の原因であった。


雪中行軍ルートの幸畑には、第5連隊雪中行軍隊員の墓地がある。
すぐそばに八甲田雪中行軍遭難資料館が建てられ、雪中行軍に関する展示を見ることができる。


幸畑陸軍墓地。松は明治36年(1903)の墓地創設時に植えられたもの。


八甲田雪中行軍遭難資料館。