シネマ紀行
 劔岳 点の記
 富山県立山町/上市町/富山市、岐阜県明治村

 
2009年 「劔岳 点の記」製作委員会 139分  第33回日本アカデミー賞・最優秀監督賞ほか多数受賞
[監督]
木村大作
[原作]新田次郎・昭和53年(1978)
[脚本]木村大作 菊池敦夫 宮村敏正
[撮影]
木村大作
[音楽]監督 池辺晋一郎
[出演]
浅野忠信 香川照之 松田龍平 仲村トオル 役所広司 宮崎あおい
 
明治39年、日露戦争を終えた陸軍は、国防のため日本地図の完成を急いでいた。最後の空白地点である雪山・剣岳への初登頂と測量は、陸軍参謀本部の測量手である柴崎芳太郎(浅野忠信)に任された。

立山連峰に屹立する剣岳は、多くの優秀な測量部員にも未踏峰なほどの険しさで知られていた。しかし、ここでの測量を終えなければ、日本地図は未完成のままである。一方、創設から間もない日本山岳会の小島(仲村トオル)らは、ヨーロッパ製の最新道具を備えて、剣岳への初登頂の名誉を狙っていた。民間に先駆けられることは、国家の威信に賭けても避けねばならない。

重い使命を背負った柴崎は、妻の葉津よ(宮崎あおい)から励まされながら、案内人の宇治長次郎(香川照之)と前人未到の剣岳へと調査に向かう。そこで出会ったのは、行者(夏八木勲)だった。「雪を背負って登り、雪を背負って降りよ」という彼の謎の言葉だけを胸に、登頂への手掛かりすら掴めないまま柴崎たちは下山した。

翌年、測夫の生田信(松田龍平)ら6名とともに測量本番の登山へ向かう柴崎たち。しかし、立山連峰の過酷な雪と暴風雨、そして雪崩は、柴崎たちの行く手を厳しく阻む。絶望的な状況の中、前任の測量手である古田盛作(役所広司)からの手紙も苦悩する柴崎の心の慰めとなった。日本山岳会の小島たちも、剣岳の困難さを身をもって体験して、あらためて柴崎への敬意を深める。自分たちは登ることが目的でも、彼らは登ってからが仕事なのだ。もういちど仲間たちと連帯し、そびえ立つ剣岳に柴崎たちは挑む。

そこでヒントになったのは、いつかの行者の言葉だった。ようやく頂上へと到達できた柴崎は、地図づくりの測量を果たすことに成功した。しかし、そこで彼が目にしたのは、古代の行者が残していた痕跡だった。剣岳に初登頂したのは柴崎ではなく、彼らだったのだ。柴崎の複雑な感慨も、無言のまま山は包み込む。〜goo映画より引用
    

室堂の大谷付近から見た劔岳。高原バスの中から撮影したが、次回は山に雪がある時期に劔御前や別山から撮りたい。 2010/10/23

室堂平からは端っこに小さく劔岳が見える。

立山町から上市町へ向かっているときに見えた劔岳。
   
明治村/北里研究所本館・医学館 2010/11/7
明治39年(1906)秋、柴崎芳太郎は陸軍参謀本部陸地測量部の部長室に呼び出され、陸軍少将大久保徳昭(笹野高史)から日本山岳会よりも先に劔岳登頂を果たすよう強く要請される。
陸軍参謀本部陸地測量部の建物としてロケに使用されたのが北里研究所は大正4年(1915)の建造である。
   

映画では、右手に煉瓦造りの門があり、軍の施設の雰囲気が出ていた。

柴崎と小島烏水とがすれ違う廊下。

明治村/京都市電 2010/11/7
陸地測量部から帰宅する柴崎を電停で妻の葉津よが出迎える。
神田橋の電停としてロケされたのが市電京都七条駅付近。
   
 
京都市電は明治33年から明治34年(1901)にかけて製造されたもので、明治村中心部と南東部の品川灯台を結んでいる。
当日は、すぐ近くで阿波踊りが披露されていた。

明治村/森鴎外・夏目漱石住宅 2010/11/7
柴崎と葉津よは、夕食のおかずのことを話しながら自宅への石段を登る。
「きょうの夕食は何だい」
「お魚とお肉、どちらがいいですか」
「魚だなあ」
「じゃ、お魚」
この石段は偉人坂と名付けられている。石段を上り切ったところに森鴎外・夏目漱石住宅。
明治20年(1887)頃、医学士中島襄吉の新居として建てられ空家のままであったが、明治23年森鴎外が借家、一年余りを過ごした。
明治36年(1903)から同39年までは夏目漱石が借りて住んでいた。
この建物は、柴崎夫婦の住居として撮影された。
    
 

明治村/幸田露伴住宅、無声堂 2010/11/7
柴崎は、劔岳登頂のアドバイスを受けるために先輩の古田をたずねる。古田は近くの弓道場に弓の練習に行っていた。
古田の自宅として幸田露伴住宅「蝸牛庵」(明治初年頃の建造)、弓道場は第四高等学校武術道場「無声堂」(大正6年建造)が撮影に使われた。弓道場の的場は修復中で、射場は阿波踊り出場者の控室になっていた。
    

幸田露伴住宅「蝸牛庵」

無声堂にある弓道場の的場。修復中だった。

明治村/SL東京駅、9号機関車 2010/11/7
劔岳の下調べのため、柴崎芳太郎は富山へやって来る。
柴崎が富山へ来るために乗る列車が9号機関車、柴崎が降り立つプラットホームがSL東京駅。
    

9号機関車は明治45年(1912)にアメリカから輸入された。

明治村のSL東京駅の中はみやげ物が売られている。



富山地方鉄道岩峅寺駅 2010/10/23
富山駅に降り立った柴崎は、前任の測量手・古田盛作に紹介された山案内人の宇治長次郎の出迎えを受ける。
新田次郎の原作では次のように書かれている。

富山駅の改札口を出たところで、柴崎芳太郎は、「陸地測量部の旦那さんではありませんか」と声を掛けられた。
人の好さそうな顔をした男が満面に笑いを浮かべて立っていた。
長次郎は柴崎の荷物を受取ると、彼の背負い袋に入れて、さあ参りましょうと云った。
迎えに出た旦那に会えてほんとうによかったという顔だった。
長次郎は体格がよかった。歩きながら年齢を訊くと、明治四年生まれだと答えた。長次郎の方が柴崎より五つ上だった。
    
富山駅としてロケが行われたのが岩峅寺駅。
駅舎内にはロケ風景の写真が展示されていた。


 

雄山神社 2012/10/2 EOS 7D
柴崎と長次郎は長次郎の家へ向かう。
到着する頃には雨になり、長次郎の妻佐和(鈴木砂羽)が番傘を持って出迎える。
この出迎えのシーンや測量隊の出発シーンがロケされたのが雄山神社境内の杉並木。
   


 

日石寺百段坂、県立博物館の善道坊と旧嶋家住宅 2010/10/23
柴崎と長次郎は芦峅寺の総代(井川比佐志)の所へ挨拶に行く。
芦峅寺は参詣者でにぎわっていて、善道坊では総代が立山曼陀羅の絵図を前に説明をしている。
柴崎は総代に測量に必要な人夫と資材の手配を依頼するが、長次郎の下で働く人夫については断られる。
このくだりは原作にはないが、この映画では効果的なシーンだった。

    

映画と同じ場所だとは思えないくらい雰囲気が違っていた。
赤のけばけばしい手すり、工事中の緑のコーン。

県立博物館のまんだら遊苑にある善道坊。
映画では、この石柱をトカゲが這っていた。


善道坊は江戸時代に建造された宿坊。
この中で総代が立山曼陀羅の説明をする。


総代の自宅としてロケされたのが、善道坊の隣にある旧嶋家住宅ではないかと思う。この建物は国指定重要文化財。

称名滝 2010/10/23 関連サイト滝を見にゆく/称名滝
柴崎と長次郎は山に入る。
その最初が称名川を渡るシーン。後方には称名滝が豪快に流れ落ちている。


現在、称名滝付近から徒歩で室堂へ行くには二つのルートがある。
一つは称名川の左岸から八郎坂を登り、高原バス道路沿いを行く。もう1つは右岸から大日岳を縦走するルートである。


八郎坂登り口。


大日岳登山口。

室堂平、玉殿岩屋 2010/10/23
柴崎と長次郎は天狗山山頂から立山連峰を一望し、室堂乗越(のっこし)のむこうに劔岳を見る。
室堂平から雄山へ登り、玉殿(たまどの)岩屋の前を下って来る。


室堂のみくりが池。
   

玉殿岩屋の説明板と梵字石がある付近から雄山を見る。
説明板の左にある道を下ると玉殿岩屋。

玉殿岩屋。後方には雄山。
柴崎と長次郎は石仏に手を合わせ谷へと下って行く。

●明治村/三重県尋常師範学校蔵持小学校 2010/11/7
立山から帰って来た柴崎は陸地測量部での報告の後、帝国図書館にいる古田をたずねアドバイスを受け、古田に励まされる。
図書館として撮影された蔵持小学校は明治21年(1888)の建造。アーチや柱の造形が美しい。


●旧浮田家住宅 2005/10/19
翌年春、柴崎は測量隊を編成し、立山の測量を開始する。
測量隊の基地となる立山温泉として撮影されたのが、富山市太田南町の旧浮田家住宅。 関連ページ旧浮田家住宅

雪は立山から運んで来たそうだ。 

●明治村/三重県庁舎 2010/11/7
明治40年(1907)7月13日、劔岳の登頂に成功する。
玉井大尉(小沢征悦)は登頂成功を上司へ確認するため廊下を走ってゆく。
軍の建物として撮影に使われた三重県庁舎は明治12年(1879)の建造、国指定の重要文化財。

 

映画では劔岳登頂の瞬間は詳しく描かれていない。
観測隊の主要メンバーは、リーダーの柴崎、測夫の木山と生田、案内人の長次郎、人夫の金作、鶴次郎、久右衛門の7人だった。
原作によれば、劔岳に登頂したのは、長次郎、生田、金作、鶴次郎の4人。
映画では、柴崎、生田、木山、長次郎、久右衛門 の5人となっていて原作とは異なっている。
原作では、登頂のシーンが次のように書かれている。

四人は稜線の鞍部を進み、揃って左向きをして、目の前にそそり立つ、高さ六十メートルの岸壁を見上げた。
それが陰になって頂上は見えなかった。岩壁の雪はほとんど落ちていた。

岩壁を攀じ登ったところは、目もくらむばかりの明るい岩尾根だった。
太陽が頭上に輝いていた。すぐ先に雪田があり、その向こうに、劔岳の頂上の丸みが見えた。
雪田から頂上までは、岩壁だったが、今度は、はだしになることもないように見える傾斜面だった。

長次郎が青空の中に消え、続いて生田が消え、金作がその中に吸いこまれた。
そして、鶴次郎は最後に頂上を踏んだ。
誰もなにも云わなかった。四人は言葉を忘れたように風に吹かれていた。
 

余談であるが、日石寺をたずねた後、近くの大岩不動の湯に立ち寄った。
日石寺不動明王磨崖仏がステンドグラスになっていたので、楽しみにして湯船に入ると、日石寺六本滝のステンドグラスだった。
不動明王は女湯の方だった。


外から見た大岩不動の湯のステンドグラス。

関連ページ磨崖仏の魅力/日石寺不動明王磨崖仏


日石寺境内の六本滝。