廃墟の風景

青の洞門

2016/12/7
PENTAX K-5Us
    
僧禅海が30年かけて掘削した青の洞門が、どのようなものであったのか詳細は不明である。
現在の青の洞門は1905年に完成したもので、山国川沿いを南北に走る市道の約300mの区間に4本のトンネルがある。
北の2本は素掘りのままであるが、南の2本はコンクリートが吹き付けられている。
観光バスが通行するため信号機が設けられ、約3分間ごとの交互通行となっている。



青の洞門を北から南へ歩いた。上の写真は北の入口で、連続するトンネルが見えている。
紅葉のピークを過ぎていて、平日だというのに観光客でにぎわっていた。
韓国語が飛び交っていたが、韓国人は青の洞門をどういう眼で見ているのだろうか。

禅海が掘削した当時の洞門が残っているのは、一番北のトンネル脇と一番南側のトンネルからさらに南の市道下にある。
中津耶馬渓観光協会のホームページには次のような解説がされている。

江戸時代、荒瀬井堰が造られたことによって山国川の水がせき止められ、樋田・青地区では川の水位が上がりました。
そのため通行人は競秀峰の高い岩壁に作られ鉄の鎖を命綱にした大変危険な道を通っていました。
諸国巡礼の旅の途中に耶馬渓へ立ち寄った禅海和尚は、この危険な道で人馬が命を落とすのを見て心を痛め、享保
20年(1735)から自力で岩壁を掘り始めました。

禅海和尚は托鉢勧進によって資金を集め、雇った石工たちとともにノミと鎚だけで掘り続け、30年余り経った明和元年
(1764)、全長342m(うちトンネル部分は144m)の洞門を完成させました。
寛延3年(1750)には第1期工事落成記念の大供養が行われ、以降は「人は4文、牛馬は8文」の通行料を徴収して工事
の費用に充てており、日本初の有料道路とも言われています。

禅海をモデルに創作されたのが、菊池寛の代表作『恩讐の彼方に』である。


一番北のトンネルへ入ってすぐ右手に禅海の洞門が残っている。


洞門には窓が2か所ある。光が入って来た時は嬉しかったことだろう。


山国川の対岸から見る。洞門にある2か所の窓が確認できる。


掘削から250年を経てもノミ跡がはっきりと残っている。


二つの窓がある洞門を南から見る。


禅海の洞門、右が市道の一番北のトンネル。


市道にある南の二つのトンネル付近を見る。
洞門ができるまではこの岩山の上を通っていた。当時の道とは異なるかもしれないが、遊歩道として現在も通行できる。
川沿いにあった
禅海の道は、川の浸食によって流されたか、市道に吸収されたのであろう。


市道の一番南のトンネルから北を見る。トンネルは4か所の岩を掘削して造られている。
市道は台帳では1本のトンネルとして扱われ、長さは223mとなっているそうだ。
禅海の道は左の歩道に沿って造られていたのではないだろうか。


市道下に禅海の洞門が残っている。


禅海和尚の像。左手に禅海が掘削した岩山が見える。
禅海は地元の人々に親しまれ、色々なものに禅海の名を残している。禅海橋、禅海茶屋、禅海グラウンド、禅海ふるさとまつり、米焼酎禅海など。

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