廃墟の風景

足尾銅山跡

2010/11/1-2
PENTAX K-7,*istD
   

本山(ほんざん)精錬所跡付近。精錬所のシンボル・大煙突が見えている。トラックが入って行ったが一般車両は進入禁止。
赤い屋根の洋館風の建物は塗装が真新しい感じで、今も使われているのだろうか。

     
明治10年(1877)、足尾銅山を買収した古河市兵衛は、探鉱〜採鉱〜選鉱〜製錬に至る各工程とその輸送方法に最新技術を積極的に導入した。早くも明治23年(1890)には水力発電所を建設しこれらの工程を電化するとともに、やがて電気精銅までの一貫した銅生産システムを確立する。これにより足尾は、東洋一の生産量を誇る銅山へと成長した。

19世紀末の世界的な電気産業の拡大に伴う銅需要の急増に呼応し、産銅量を増やしていった日本は、20世紀初頭には世界第3位の産銅国となる。しかし、その過程で全国の銅山では製錬で発生する亜硫酸ガスと鉱山廃水による環境への影響が次第に顕在化していった。狭隘な山間部で、かつ長大な流域面積を有する河川の最上流部に位置する足尾銅山の立地は、他の銅山に比べ被害をより深刻なものとした。

明治24年(1891)、発足間もない帝国議会での衆議院議員田中正造の追求を契機に鉱害問題は広く知られるところとなり、やがて大きな社会問題へと発展した。事態を重く見た政府は日本の鉱業の存亡をかけ、明治29年(1896)、日本初の「予防工事命令」を発令し、以後徹底した対策を古河に命じた。古河もこれに応え、厳重な工期のなか浄水場、廃石゚の堆積場、脱硫塔の建設を完工した。

これにより廃水対策は一定の成果を見るが、脱硫塔での煙害対策は不十分であった。その後、大正4年(1915)に希釈法、同7年(1918)に電気集塵法といった当時最新の技術による対策を講じ排煙中の有害物質の除去に努めたが、亜硫酸ガスの完全回収が成功したのは、フィンランドのオートクンプ社が開発した技術を基に、昭和31年(1956)に世界で初めて実用化に成功した「自溶製錬法」とそれに伴う脱硫技術によってであった。その後、古河が独自の改良を加えて完成させたこの技術は、現在世界各国で導入され活動中である。

このように明治以降の足尾銅山の歴史は、日本の急速な産業化の歴史の反映であると同時 に、日本で初めて社会問題化した公害とその対策の歴史でもあり、それは同時期の先進諸国に共通する大きな課題への挑戦でもあった。足尾銅山は昭和48年(1973)に閉山し、やがて銅生産の歴史も幕を閉じたが、坑内廃水の浄水処理は現在も予防工事命令により建設された施設を改良しつつ続けられている。また、工事命令後始められた煙害地の植林も自溶炉導入後に本格化し、国・県・古河のみならず今日では多くのボランティアが参加し、徐々に緑は回復しつつある。

足尾銅山の建造物群は単なる近代産業の記念物ではない。公害反対運動の中軸となった渡良瀬川下流域の遺跡等とともに、その景観は20世紀の縮図であり、我々人類が21世紀になすべきことを示している現在進行形の遺産なのである。

                                        「世界遺産暫定一覧表追加記載提案書(栃木県日光市)」より
■小滝坑跡
国道122号線を北へ、国道がわたらせ渓谷鉄道の第2渡良瀬川橋梁をくぐるあたりから左へ県道が分岐している。
県道を庚申川に沿って4kmほど進むと小滝坑跡があり、途中には、集落があった小滝の里公園や鉱山鉄道の鉄橋などが残っている。
小滝坑は明治18年(1885)の開坑。明治26年には本山坑と貫通し、通洞坑と立坑で連絡し、足尾銅山を形成して行った。
昭和29年(1954)、経営合理化により閉山し小滝の銅山施設は撤去された。

小滝坑跡(日光市指定史跡)。
    

大正15年(1925)に架橋された鉱山鉄道の小滝橋。

火薬庫跡。

精錬所・選鉱所跡。

小滝の里の記念碑。ここには最盛期に1万2千人が暮らしていた。

■足尾線廃線跡
足尾線が本山まで開通したのが大正3年(1914)。昭和63年(1978)にわたらせ渓谷鉄道が発足し、間藤〜本山は廃線となった。
    

間藤駅のすぐ北で道路を横断する。道路から間藤駅方を見る。

道路から本山駅方を見る。鉄橋の向こうに旧本山小学校講堂。


鉄橋を横から見る。鉄橋の下にコンクリートの人道橋がかかっているがこれも廃橋。
間藤・本山間にあるトンネルや旧本山駅構内も見たかったが、基本的には立入禁止なので撮影しなかった。

本山精錬所跡付近の風景

古河(ふるかわ)橋は、明治23年(1890)に渡良瀬川に架けられた鉄製の橋。日光市指定文化財。
左手にコンクリート橋が架けられ現在は使われていない。正面右手が本山精錬所跡の建物で、この建物の向こう側に足尾線の本山駅跡がある。正面に緑色の鉄橋が見えている。欄干は木製、橋面は板張りであるが、建造当時からこのような形態だったかどうか不明。
    

精錬所跡は解体が進んでいて、残っている建物が少ない。

銅親水公園から見た大煙突。

廃墟の風景