廃墟の風景

別子銅山跡 端出場(はでば)

2013/9/13
EOS 5D/24-105
    
昭和に入り、採掘場所が山上の旧別子や東平(とうなる)から下部へ移行したことから、採掘された鉱石はすべて端出場へ集中させることとなり、昭和5年(1930)に採鉱本部を端出場へ移転した。

下部鉄道のマイントピア側の終着点付近からおおむね南へと探訪した。
鹿森社宅跡を含めて、2時間ほど要した。


参考サイト マイントピア別子/産業遺産

      別子銅山 近代化産業遺産








   
 
 銅鉱石を背負って運搬した仲持ちの像。2014/5/21 EOS 7D
(1)鹿森社宅跡
マイントピアの駐車場の北端あたりに鹿森社宅の標識が出ている。
ここは、下部鉄道が上下2段に別れているところで、レールは残っていないが下段の線路を横断して、上段の線路の下をトンネルでくぐる。
ここから鹿森社宅までは曲がりくねった坂道を約15分。
鹿森社宅は大正5年(1916)から建設が始まり、全盛期には約300戸、約1300人が生活をしていた。
別子銅山の閉山に伴い、昭和45年(1970)に廃村となった。
    

下部鉄道下のトンネルをくぐる。

2000年に建てられた記念碑。
   

石段の両側に石垣。石段はずっと上まで続いている。石段の右に水路がありその右に石段があるが、右の石段は草に埋もれていた。
ここには、小学校、生協、共同浴場など生活に必要な最低限のものがあった。
   
(2)端出場貯蔵庫跡
鹿森社宅跡への登り口の左手にある。大正8年(1919)完成の鉱石を貯めるための施設である。
貯蔵庫の上には第4通洞からの線路があり、上から鉱石を落として貯蔵庫に貯める仕組みになっていた。

貯蔵庫からは下部鉄道の線路があり、新居浜へと運搬された。
貯蔵庫の前のコンクリートは下部鉄道跡を通る水路で、ここには貯蔵庫の上、貯蔵庫の中、貯蔵庫の前、3本の線路があった。
   
(3)中尾トンネルと打除(うちよけ)鉄橋
下部鉄道の一番下の線路跡の先に観光列車が走っている線路がある。この線路上に中尾トンネルがあり、トンネルをぬけると打除鉄橋。 
中尾トンネルと打除鉄橋は、明治26年(1893)の下部鉄道の開通に合わせて建造された。


2014/5/21 EOS 7D
   
(4)四通橋と第4通洞
第四通洞は、第三通洞と連結する大竪坑までの約4600mが貫通したのは大正4年(1915)だった。掘削開始から貫通まで6年を要した。
日浦からの日浦通洞、東平からの第三通洞と大竪坑によって連結した第四通洞は、鉱石運搬ルートとして閉山まで重要な役割を果たした。
   

四通橋のむこうに第四通洞が見える。

四通橋越しに打除鉄橋を見る。
   

おとずれた日は猛暑日だったが、通洞の前に立つと中から冷気が噴出していてとても涼しかった。


第4通洞前の線路跡。


別子銅山で働いていた和田佳木子(かぼくし)の2句の句碑。            
2014/5/21 EOS 7D
   
(5)大斜坑の貯鉱庫跡
鉱脈の下部移行に伴い、標高マイナス1000mへの大斜坑が計画され、8年をかけて昭和43年(1968)に完成した。別子銅山最後の挑戦だった。

四角いコンクリート造りのものが貯鉱蔵跡で、4000トンの貯鉱能力があった。向かって左側に大斜坑の坑口があるという。

(6)端出場水力発電所跡
別子銅山へ電力を供給するため、明治45年(1912)に建設された。
石ヶ山丈貯水池からの落差596mを利用して発電が行われ、当時としては日本最大級の出力3000kwだった。

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