廃墟の風景

別子銅山跡 旧別子・別子山

2013/9/12
PENTAX K-7/16-45
    
旧別子は、別子ダムのある標高約800mの日浦から標高約1300mの銅山越まで、標高差約500m、道のり約3.2kmの間にある、元禄時代の1691年から大正5年(1916)までの銅山跡である。

古い時代の遺構はわずかしか残されていないが、明治から大正にかけての遺構がかなり残されている。

しかし、閉山後に、森林を復活させるために建物を撤去し杉や桧などを植林したため、遺構の多くは森の中に埋没している。

駐車場とトイレのある日浦登山口から目出度町(めったまち)、蘭塔婆山、展望台、歓喜坑・歓東坑、牛車道を経由して銅山越へ、2時間半を要した。銅山越で30分の昼食休憩。

下山は木方(きかた)経由で東延(とうえん)に立ち寄り、
2時間を要した。歩行距離約8km、計5時間の山歩きはとても楽しかった。

別子山は別子ダムの上流の地域で明治期の遺構がいくつか残っている。

参考サイト 旧別子銅山へ行こう! 別子銅山 近代化産業遺産
 
 標高1294mの銅山越にあるプレート


日浦登山口に掲示されていた地図。遺構間の距離が実際とは違っているが、全体を俯瞰するのには適している。
    

日浦登山口。

岩を削って道がつけられている。
   
(1)小足谷(こあしたに)醸造所跡
酒の醸造がはじまったのが明治3年(1870)からで、最盛期には年間100kl
の酒を製造した。銅生産の中心地が山むこうの東平(とうなる)に移りつつあ
る中、明治44年(1911)に製造中止となり大正3年(1914)に廃止された。

醸造所の煙突が残っていた。
(2)小足谷接待館跡と採鉱課長宅跡
小足谷で目を引くのが煉瓦の建物。

これは接待館跡で、別子山中の中心街にあった。
明治34年(1901)、一般人が経営していた泉亭を改装したもの。


奥の一段高いところにあるのが採鉱課長宅跡。
銅山での採鉱課長の地位が想像できる規模である。
このような建物が20棟ほど建ち並んでいたという。

 
    
(3)小足谷集落跡

苔むした石垣が美しい。すぐ左手に川が流れ、絶えず水音が聞こえていて気持ちがよい。
    

住友私立小足谷小学校跡。明治22年(1889)開校。明治32年(1899)末時
点で教員7名、生徒298名だったという。大正4年(1915)の大火で焼失し、
東平ら小学校や弟地(おとじ)小学校へ移転した。

小足谷劇場跡。明治22年(1889)、小学校の隣に建設された。収容人員1000人を越える大規模な施設で、京都などから歌舞伎の名優を呼んで上演されていたという。たくさんの人が踏んだであろう大階段の石垣が美しい。
   
(4)高橋精錬所跡
明治24年(1891)頃から稼動した別子銅山最初の洋式精錬所で、明治32年(1899)の風水害で崩壊した。

正面の高い石垣が300m上流へ続くかなり大規模な精錬所だった。白い立て札は住友病院跡で、下のアーチは病院への橋だった。
   
(5)大山積神社跡
目出度町と云われるこの地に大山積神社が遷座されたのは明治25年(1892)。

神社への石段。

お百度石と石柱。

(6)蘭塔場
別子銅山で事故や災害などで亡くなった人を弔うための墓所。元禄7年(1694)の山火事の後に開設された。
大正5年(1916)、旧別子からの撤退により、墓碑は新居浜の瑞応寺へ移された。

蘭塔場は小山の上にある。

蘭塔場を牛車道から見下ろす。
   
(7)歓喜坑と歓東坑
別子銅山発祥の地、元禄時代の坑道。

左が歓喜坑、右が歓東坑。
(8)牛車道
人による運搬から牛車による運搬へ、明治13年(1924)に開通。

現在の牛車道。
   
(9)銅山峰
旧別子で採掘された銅鉱石をどのようにして銅山峰を越させるかが別子銅山の歴史でもあった。
人による運搬、牛車による運搬、通洞と呼ばれるトンネル、鉄道による運搬、索道という空中ワイヤーによる運搬など多角的に変遷して行った。
別子銅山の歴史そしてその遺構の中で最も興味を引かれるのは、銅鉱石や粗銅の運搬方法に関するものである。

銅山峰には、道中で亡くなった人を弔う峰地蔵が祀られている。筆者も、下山の安全を祈った。
   
(10)第一通洞
明治19年(1886)別子銅山で初めての通洞。高橋精錬所で精錬された粗銅を新居浜側へ送り、新居浜側からは生活物資が送られた。
銅山峰を越えた角石原まで通洞をトロッコで運ばれ、その先は人による運搬だったが、明治26年(1893)には上部鉄道が完成し石ヶ山丈 (いしださんじょう)まで運ばれ、空中ワイヤーの索道によって端出場(マイントピア別子)へ、端出場から下部鉄道で新居浜市内へ運搬された。

水路のそばに煉瓦の遺構。

水路左手に第一通洞。水路は東延斜坑へ通じているという。


緑の中の石組みのアーチが美しい。ここは南口。北口は銅山峰を越えた角石原にある。
   
(11)東延
別子銅山の中で近代化の象徴とされるところで、明治19年(1886)には、採鉱本部が小足谷から移転してきた。 

石垣の上に施設があった。下の煉瓦造りの暗渠は谷川の水を流すため。

圧縮機が置かれていた土台。
   

東延斜坑跡。19年をかけて明治28年(1895)に長さ526mの斜坑が完成。

斜坑の鉱石台車を引上げる巻揚機があった機械場跡。
   

採掘場所が深くなったため、採鉱本部は大正5年(1916)に東平へ移転し、機械場も昭和7年(1932)に廃止された。
機械場廃止から80年を超え、機械場は屋根や窓は崩落し煉瓦の壁だけを残している。煉瓦には緩みが見られ、やがて崩落することだろう。
 
     
(12)筏津(いかだつ)坑
以前は別子観光センター「筏津荘」があり目印となっていたそうだが、今は観光センターの建物はない。
筏津坑が開坑されたのが明治19年(1886)、昭和48年(1973)に終掘し、筏津坑の終掘によって225年間の別子銅山の歴史を閉じた。
筏津坑の銅鉱石は日浦・筏津索道というロープウェイで日浦通洞へ運ばれ、日浦通洞から第3通洞を経由して東平へ搬送された。

筏津坑跡。

筏津坑で使用されていたトロッコ。
   

筏津坑跡前の銅山川の吊り橋跡。
たくさんの鉱山労働者が渡ったことだろう。

近くに佐々木信綱歌碑。
別子のや 雪のいただき ほがらほがら 初春の日の 輝けり見ゆ
   
(13)日浦通洞
日浦橋を渡って右折した先にあるが、通洞への橋は進入禁止となっている。
東延斜坑と日浦を結ぶ輸送路で、のちに第3通洞と連絡し、山むこうの東平と結ばれた。
明治44年(1911)に完成。通洞の長さは2120mで、第3通洞と合わせると約4kmに達した。
昭和13年(1938)からはかご電車が運転されるようになり、人も運搬可能となった。料金無料だが、30分間トンネルの中だった。

この鉄橋の先に日浦通洞の入口がある。

日浦通洞で使われていたかご電車(銅山記念館に展示)

廃墟の風景