廃墟の風景

水城跡大野城跡基肄城跡

関連ページ 金田城跡

唐・新羅の連合軍によって滅亡した百済を救済するために送られた倭国軍は、663年に朝鮮半島西岸の白村江(はくすきのえ)で大敗し撤退した。
大和朝廷(天智天皇)は、唐・新羅の侵攻に備え西日本各地に防塁や朝鮮式山城を築いた。

筑紫に大宰府政庁を直接防衛するための水城(みずき)、筑前に大野城(おおのじょう)、肥前に基肄城(きいじょう)、肥後に鞠智城(きくちじょう)、
対馬に金田城(かねたのき)、長門に長門城(ながとのき)、讃岐に屋嶋城(やしまのき)、大和に高安城(たかやすのき) であった。

そのうち、北部九州にある3か所の遺跡を探訪した。


大宰府政庁跡から大野城跡がある山並みを見る。山全体は四王寺山とよばれ、右(東)の標高354m大原山から、
左(西)の標高410m大城(おおき)山へとなだらかな起伏を描いている。 2007/7/31 *istD

■水城跡
水城の堤防は約1.2km、幅80m、高さ13mで、博多側に幅60mの濠があり水を貯えていたという。


岩屋城跡から見た水城跡。道路によって分断されている。2015/7/15 K-7


大城山から見た水城跡。 


木が生えているところが堤防で、手前の段差が濠の跡と思われる。


東門の礎石が残っていた。
 2007/7/31 *istD

■大野城跡
四王寺山の尾根を取り巻いて土塁と石垣が造られ、総延長は8kmに及ぶ。9か所に城門があり、城内には70棟を超える建物跡が確認されている。
県民の森センターに置いてある「遊歩道・礎石群・石仏案内」というリーフレットが、遺跡歩きを助けてくれた。
遺跡は広範囲にわたっているが、主なものを北から南へ掲載した。


東北部にある小石垣と城門の礎石。2015/7/18 K-7


南部に比し、北部の道標は分かりやすかった。


北石垣は草におおわれて見えなかった。主城原礎石群も同様だった。


町道から見える百間石垣。全長が180mくらいあることからそうよばれている。
全体としては石を積み上げた石塁であるが、雨で崩壊しやすいところには石垣が組まれている。崩壊するたびに修復してきたという。
百間石垣の下に宇美口城門があった。城門の礎石は県民の森センター前に保存されている。


百間石垣の下を流れる四王寺川の滝。1350年前にもあったのだろうか。


大城林道沿いにある屯水とよばれる水門跡。吐水口が上下2段にある。


増長天礎石群。ここには四つの建物跡があるが、三つはシートにおおわれ、
この礎石はコンクリートで固められている。 2015/7/15 K-7


鏡池。増長天礎石群のすぐ近くにあり、かつては井戸だった。日照りの時に池に沈んでいる鏡を取り出して祈ったという伝説がある。 2007/7/31*istD


増長天礎石群の西方の谷にある大石垣。 2015/7/15 K-7


水城口城門礎石。


宇美口城門礎石。県民の森センター前に保存されている。


焼米ケ原(やきごめがはら)の土塁。遠くに宝満山が見える。2015/7/18 K-7


焼米ケ原から少し下ったところにある太宰府口城門跡。


城門の礎石が対で残っている。


太宰府口城門の東側の土塁からは石垣が少し見えている。


西側の土塁の裏側には美しい石垣が露出している。


毘沙門堂 2015/7/15 K-7


三十三ケ所石仏

大野城は一度も使用されることなくその役割を終え、約100年後の774年に四王寺という寺が建立された。

四王寺山には、四天王である毘沙門天、広目天、持国天、増長天という地名が残っている。

大城山山頂近くの毘沙門天には毘沙門堂があり、わずかに往時を偲ばせてくれる。

江戸時代の寛政年間(1789-1800)には、石仏三十三ケ所が設立され、特に明治から大正にかけては参拝者が絶えなかったという。

石仏の作者は博多の石材屋3代目・国松市三郎で、寛政12年(1800)の建立で200年以上が経過している。

機会があれば、春秋の気候のよいときに石仏巡りをしてみたいと思う。
 

■基肄城跡 2007/9/26 *istD 関連ページ 山歩き/基山
標高406mの基山(きざん)と標高327mの東峰を約4kmの土塁と石塁で囲み、4か所に門が設け合っれていた。
土塁・石塁の内側の尾根に建物を配していて、今までに約40か所の建物跡が確認されている。
南端の水門跡から左回りに史跡めぐりコースを約60分で基山山頂へたどりつける。


水門跡。保存のための修復が重ねられた結果、1350年前の石組みがきれいに残っている。


米倉跡礎石群。


鐘楼跡。寺があったのだろうか。


東北門跡。両側に土塁のようなものがある。


丸尾礎石群。


山頂部は土塁に沿って原っぱになっている。

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