廃墟の風景

金田城かなたのき

  2015/5/11
PENTAX K-7

唐・新羅の連合軍によって滅亡した百済を救済するために送られた倭国軍は、663年に朝鮮半島西岸の白村江(はくすきのえ)で大敗した。
大和朝廷は、唐・新羅の侵攻に備え西日本各地に防塁や朝鮮式山城を築いた。

筑紫に大宰府政庁を直接防衛するための水城(みずき)、筑前に大野城(おおのじょう)、肥前に基肄城(きいじょう)、肥後に鞠智城(きくちじょう)、
対馬に金田城(かねたのき)、長門に長門城(ながとのき)、讃岐に屋嶋城(やしまのき)、大和に高安城(たかやすのき) であった。
防備に当たったのが防人(さきもり)で東日本の農民が徴用された。21歳から60歳までの男子が3年交代で任務に就き、最多時は3000人に及んだ。


金田城が築かれたのは667年である。金田城があった城山に1901年に砲台が築かれたが、その際の道路建設によって石塁の一部が破壊されたという。今、その道路は城山への登山道となっている。

城山山頂付近にある城山砲台跡をたずねた帰りに、登山道沿いの南西部石塁を見て、登山道脇にある東屋から ビングシ山(防人住居跡などがある)へ、ニノ城戸(きど)・一の城戸を通って大吉戸(おおきど)神社を往復し、三の城戸、東南角石塁というルートだった。

東屋から東南角石塁まで休憩時間を含めて1時間50分、大吉戸神社での20分の休憩を除けば1時間30分。

なお、城山登山口から写真を撮りながらゆっくりペースで、東南角石塁まで20分
東屋まで30分、南西部石塁までは50分、城山砲台跡までは60分。

金田城は、天然の崖と約3kmの石垣の要塞であったが、676年に新羅が朝鮮半島を統一し情勢が安定したため、実戦に使われることはなかった。

南西部石塁
東屋から20分ほど、砲台跡まで10分ほどのところにある。うっそうとした森の中に1300年以上前の石垣があった。



●ビングシ土塁・門跡
ニノ城戸と三ノ城戸の中間にあるビングシ山の鞍部には土塁と門の柱穴が残っている。





●ニノ城戸
手前と向こう側の石垣の間が城門だった。



城門左側の石垣。


城門右側の石垣。

●一ノ城戸
下部は7世紀に築かれたもので自然石の野面積み、上部は後世に修復されたもので切石が整然と積まれている。


●大吉戸神社
黒瀬湾の入口・細り口から少し湾内に入ったところにある。八幡神をまつり、城山の守護としたそうだ。


社殿。


社殿から海を見る。


40m超の石英斑岩の絶壁・鋸割岩(のこわきいわ)を見る。


対馬の海岸はどこへ行ってもハングル文字のゴミが散乱している。

●三ノ城戸
ビングシ山から7分くらい、森の中に忽然とあらわれる。


●東南角石塁
現存する石垣の中では最大規模ではないだろうか。石垣の崩落があちこちで見られ、補修が行われていた。



廃墟の風景