廃墟の風景

城井ノ上きいのこ城址

2014/9/5 K20D/16-45
2014/9/9 EOS 5D/24-105

城井谷(きいだに)には城井・宇都宮氏に関わる城跡が8か所あるが、最も奥まったところにあるのが城井ノ上城。
城井谷のある町に生まれ小学校6年生まで暮らした筆者にとって、「きいのこ」は幼い頃よく耳にした言葉である。
そこが城跡であることを知ったのは高校生くらいになってからであるが、幼い頃は鬼が住んでいるような恐ろしい所を想像していた。

小学校の校歌には、「紫匂う英彦山(えひこさん)、清き流れの城井川(きいがわ)の〜」と城井谷を流れ豊前海に達する城井川が歌いこまれいるが、
その城井川の最上流部に城井ノ上城址がある。


県道237号線沿いにある城井ノ上城址入口。


入口のすぐ近くにある宇都宮一族之碑。

宇都宮氏は鎌倉時代に源頼朝から豊前の地頭を命じられた。
戦国時代、豊前には460に及ぶ小領主が乱立していて、当時の宇都宮氏は城井川沿いの城井谷を拠点とし、城井を名乗っていた。

父・城井長房のあとを継いだ城井鎮房(しげふさ)は、秀吉の九州平定に際して本領安堵を願い出て秀吉の軍門に下る。
しかし、秀吉が豊前6郡(京都郡、築城郡、上毛郡、下毛郡、仲津郡、宇佐郡の一部)を黒田へ与え、伊予への国替えを命じられる。

先祖伝来の土地への愛着が強かった鎮房はこれを不服とし、秀吉軍の尖峰である黒田軍と戦うことになる。
海側に近い城が次々と陥落し、城井谷深くにある大平城と城井ノ上城が最後の戦いの場となった。
のちに和議を受け入れた鎮房が中津城へおもむいた際に、黒田孝高(よしたか、またの名を官兵衛のちの如水)・長政親子によって謀殺された。

孝高と鎮房の子・朝房が肥後の一揆を鎮圧するために留守にしている間に、長政の独断で鎮房は謀殺されたとする説もあるが、定かではない。
そして、鎮房の父・長房、子・朝房、娘・鶴姫も黒田によって殺され、宇都宮一族430年の歴史を閉じた。


←入口から城井川沿いを5分ほどのところにある三丁弓の岩。「弓三  
 丁あれば敵一兵も通さず」と言われたことから名付けられた。



入口から10分ほどで城井ノ上城址登り口。


すぐ近くに五輪塔。


登り口から3分ほどで城井ノ上城表門。

昭和55年(1980)5月、まだ元気だった妻と小学生だった娘と息子、そして親戚の人たちと、この城跡をたずねたことがある。

妻の旧姓は城井。城井という姓はめずらしく、城井・宇都宮一族の子孫ではないかとされていて、妻自身も子孫であると信じていたようだ。世が世であればお姫様だったのかもしれない。そんなことを背景として短い随筆にまとめていて、新聞の地方版にも掲載された。


                    「出城」

 新緑の美しいある日、城跡へ行った。細い山道を息をはずませ、やっと一人通れるほどの岩と岩との間を通り抜けると、山に抱かれるようにして、あまり広くない草地があり、お姫様を守る忠実な武士のように、大きな岩がその跡地を見下ろしていた。

 木の枝が茂る暗い中で、敵に追われこの出城に逃げのびた先祖をしのんでいると、息子が「おかあさん、さっき、やっと通れたね」と言う。

 悲しげな、か細いお姫様が、デバラブタ子姫に変わった。



当時の妻はふっくらしていて、お腹まわりを気にしていた。
息子が「やっと通れたね」と言ったのは、表門か右の画像の岩の門、どちらかではないかと思う。

 
 表門から5分ほど登ったところにある岩の門(中門?)。


岩の門から3分ほど歩くと平らな空間があり、ここに緊急避難の際の館があ
ったのではないかと思われる。


妻が随筆の中でお姫様を守る忠実な武士のように大きな岩がその跡地を見下ろしていたと書いている岩。岩の下には朽ち果てようとしている祠。


山中には昭和30年代まで使われていたという炭焼き窯跡。


裏門への登り口にある番人の穴。3人くらい寝泊まりできそうだ。


城井ノ上城址登り口から山道を40分ほど登ったところにある裏門。急な崖道の上に天然のものと思われる岩のアーチがある。
崖下右手にある洞窟は番人が居住したところで、これは人工的なものではないかと思われる。
裏門から反対側へ下ると林道の「他城のイロハモミジ」を経由して登り口へ戻れるそうだが、雨のあとで裏門への鎖場が滑りそうだったので断念した。

他城のイロハモミジ」を見たかったので、再びたずねた。2014/11/11 PENTAX K-7
イロハモミジの少し先に城井ノ上城裏門への登り口があり、歩きにくいところには補助のロープが張られていた。裏門まで約30分だった。



自然のままではなく、人の手が加えられているようだ。

■城井谷にある宇都宮氏ゆかりの場所をたずねた


少し小高い緑の森が宇都宮氏館跡。中世において山城は戦さのためのもので、普段は平野部の館に住んでいた。150m×200mくらいの広さで、20棟以上の建物跡が発見されている。


曹洞宗の月光山天徳寺にある宇都宮一族の墓所。
天徳寺は14世紀半ばに宇都宮氏が建立した寺。
当時は居館、天徳寺、背後にある本庄城が一体化していたという。


城井鎮房が愛した城井谷の風景を県道32号線から見る。ここから県道32号線をさらに豊前方向へ進むと大平城址への登り口がある。


秋の城井谷。2014/11/11 PENTAX K-7


三霊神社付近から見る。
右のこんもりとした山が大平城址。
左の少し尖った山が求菩堤山。


ここから求菩提山経由国見山まで往復6時間かかる
そうだが、春の頃に歩いてみたいと思っている。



近くの田んぼでは彼岸花が咲き始めていた。

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