廃墟の風景

長崎原爆遺構

  2018/3/3
EOS 5DV/24-105
    
1945年8月9日、午前11時2分、長崎市松山町の上空で原子爆弾が炸裂した。

当時の長崎市の人口は約24万人、1945年12月末までの被災者は、死者73884人、負傷者は74909人、長崎市民の約6割が被災したことになる。

長崎は何度もおとずれているが、キリスト教の関連施設をめぐることがほとんどで、原爆の痕跡をたずねることはほとんどなかった。

2004年に、山王神社の二の鳥居とクスノキをたずねたが、今回は、城山小学校、山里小学校、浦上天主堂、長崎大学医学部、長崎原爆資料館、平和公園、原爆落下中心地をたずねた。


←長崎原爆資料館に展示されている柱時計

■城山小学校〜爆心地より西へ500m


被爆校舎(城山小学校平和祈念館、国指定史跡)。3階建ての校舎の一部が残されている。

校舎の内部。半円形の窓から光が入っていた。


小学校への坂道は被爆以前からあった。
平和坂と名づけられた坂道の入口に2本のクスノキがある。
被爆で燃えたクスから新芽が出て2本のクスに成長したという。


体育館の横にカラスザンショウの枯れ木がある。被爆しながらもムクノキに支えられて立っている。
■山里小学校〜爆心地から北へ700m


あの子らの碑。永井隆博士の「原子雲の下に生きて」の印税によって建立された。かたわらには永井博士の筆による「平和を」の石柱。


山里小学校は煉瓦造りの美しい校舎になっていた。

あの子
【作詞】永井隆
【作曲】木野普見雄

壁に残った 落書きの
おさない文字のあの子の名
呼んでひそかに耳すます
ああ
あの子が生きていたならば

運動会のスピーカー
聞こえる部屋に出してみる
テープ切ったるユニフォーム
ああ
あの子が生きていたならば

ついに帰らぬおもかげと
知ってはいても 夕焼けの
門(かど)に出てみる葉鶏頭
ああ
あの子が生きていたならば



校舎裏にある防空壕跡。

■浦上天主堂〜爆心地から北東へ500m


長崎原爆資料館に展示されている浦上天主堂側壁の模型。


爆心地公園に保存されている側壁の一部。


浦上天主堂正面玄関には3体の石像が掲げられている。
原爆で破壊されたものを復元した「十字架上のキリスト」の左右に、原爆で焼け残った「悲しみの聖母」と「使徒聖ヨハネ」。

天主堂前の植え込みに保存されている焼け焦げた石像。


崩れ落ちた鐘楼。


6体の天使像。下半身は破損・紛失したのだろう。


天主堂への坂道の途中にある天使像。胸から上だけが残され、翼は欠けている。

■長崎大学医学部(旧長崎医科大学)門柱〜爆心地から南東へ600m

 
右の門柱は土手にさえぎられて無事だったが、左の門柱は爆風を受けて浮き上がっている。

■長崎刑務所浦上支所跡〜爆心地から北へ300m

 
浦上の刑務所は平和祈念像が建っている平和公園にあった。煉瓦造りの基礎部分が残されている。
案内板によれば、「原爆の炸裂によって刑務所内にいた職員十八人、官舎居住者三十五人、受刑者及び刑事被告人百八十一人
(内、中国人三十二人、朝鮮人十三人)の計百三十四人全員が即死した」とある。

■山王神社〜爆心地から南東へ800m
  2004/1/20  E-100RS *istD


爆風で一本柱となった山王神社二の鳥居。別名を浦上皇大神宮といい、大神宮の文字の額が残されていた。


山王神社境内にある被爆クス。黒焦げとなった幹から見事によみがえった歴史の証人。樹齢約500年、長崎市指定天然記念物。

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