廃墟の風景

肥前名護屋城跡+堀秀治陣跡

参考サイト肥前名護屋城 2018/4/5 PENTAX K-7/16-85
 


肥前名護屋城博物館のホームページには、次のように紹介されている。


  
名護屋城は豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して出兵拠点として築かれた城です。
 1592(文禄元)年の開戦から秀吉の死で諸大名が 撤退するまで、7年の間大陸侵攻の拠点となりました。
 城の面積は約17ヘクタールにおよび、当時では大坂城に次ぐ規模を誇りました。
 周囲には130以上に上る諸大名の陣屋が構築され、全国から20万人を超える人々が集ったとされています。
 国内でこれほどまでの名だたる武将が一同に会した城、陣跡はありません。

  
関ヶ原の戦いの後、寺沢広高が唐津城を築城した際に、その一部の遺材を使用したと言われています。
 その後、一国一城令(1615年)を受けて、人為的に破却。
 現在、名護屋城跡と23箇所の陣跡が国の特別史跡に指定されています。


波戸岬へ突き出した半島全体とその周辺部に陣屋跡があり、宅地開発などによって失われてきているが、400年
以上経過した今も巨大な廃墟として残されている。秀吉の狂気の産物であるが、砲台などの戦争遺跡と同様に、
平和であることのしあわせをかみしめながら歩いてみたいと思った。


南側の名護屋城博物館の駐車場から、観光案内所でガイドマップを手に入れ 大手口から入るのが一般的。
筆者は、城跡の北にある
法光寺の塩釜桜をたずねてから城跡へ行ったので水手口から入った。
水手口から西まわりで、水手曲輪→遊撃丸→二の丸→馬場→三の丸→本丸→東出丸→大手口の順だった。

散策時間は約1時間だったが、名護屋城博物館と堀秀治陣屋跡もたずねたので、トータルで約2時間を要した。
❶ 石垣
安土桃山時代の貴重な技術を示す石垣には主に九州の諸大名がその構築に携わった。
   
❷ 弾正丸
秀吉の姻戚で、五奉行の筆頭、浅野弾正長政が居住していたところで、その名にちなんで付けられた。
 
❸ ニノ丸
本丸の西側にあり、武器、兵糧などの建物があった。
❹ 遊撃丸
文禄2年(1593年)に講和使節として来日した沈維敬(遊撃将軍の使者)の宿舎となったことから、この名称が付けられたといわれている。
❺ 本丸(天守台)
本丸の広さは東西130m、南北125mで、この西北の隅に天守閣が置かれていた。この天守台からの玄界灘の眺望は素晴らしく、壱岐・対馬も望見できる。
❻ 水手曲輪(みずのてくるわ)
城の欠点は水利の便の悪さ。城中に深井戸も掘ったが水不足で、そのためここに貯水池を造って雨水を貯め、使用していたと伝えられる。
❼ 本丸大手門
三ノ丸から本丸への入口に、二層の豪壮な門が築かれていた。後に、仙台(青葉)城主伊達政宗が城の大手門に移したという。国宝であったが、惜しくも第2次世界大戦(昭和20年)の空襲で焼失した。
❽ 三ノ丸
本丸を守る重要な区域。ここから二ノ丸にも通じている。井戸の跡がみられる。
❾ 山里丸( 曲輪
秀吉の居館・御殿や、能舞台、茶室、庭園などがあった。
❿ 東出丸
大手口から登城坂を登ると、地元で千人枡をいわれる曲輪が右側にある。
⓫ 大手口
城の正面玄関口で、右手に大規模な櫓台があり、太閤道に通じている。



 


二の丸付近から本丸の石垣を見る。


馬場から「城のかげため池」を見る。左手に名護屋城博物館の屋根が見えている。

 
三の丸付近の石垣。


三の丸井戸跡。名護屋は水の便が悪く、あちこちに井戸が掘られたようだ。


本丸跡。広場になっていて、東郷平八郎揮毫の名護屋城址と刻まれた大きな石碑がある。木があるところが天守台。


名護屋城天守台跡の石碑。朝鮮半島へと続く海が見える。


天守台近くに青木月斗の句碑。太閤が 睨みし海の 霞かな


大手口から東出丸へつづく登城坂。三の丸の石垣を見ながら進む。

   

大手口の石垣の上に石仏。

■堀秀治陣跡
公園として保存されているので、当時の地形がもっともよく残っているという堀秀治の陣跡をたずねた。
堀秀治は越前北ノ庄18万石の城主として名護屋へやって来た。のちに越後春日山45万石の城主となり、関ケ原では東軍として参戦した。
16歳で名護屋へ来て、24歳で関ケ原へ、31歳で没している。この人の人生は何だったのだろうか、そんなことを考えながら陣跡を歩いた。


北西曲輪跡の石垣。建物がないので空が広く、草原にいるような感覚になる。

本曲輪跡。陣の中心で、広間、御殿、能舞台、茶室などの礎石が残されている。越前から遠く九州の西にまでやって来ても、能や茶を忘れることはなかった。


石段と門礎石。


本曲輪跡にあった旗竿石。家紋が入った旗が立てられていたのだろう。


土塁と空堀があり山城のようだ。

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