廃墟の風景

旧玉名干拓施設

2015/6/25
EOS 5D/24-105
 
   
玉名市の南部、有明海に面して、菊池川と唐人川にはさまれた横島町があるが、かつては島だった。
加藤清正が天正17年(1589)に干拓に着手し、江戸時代も干拓は続けられ、明治30年前後の1893-1902年に大規模な干拓工事が行われた。
その遺構が旧玉名干拓施設である。

旧玉名干拓施設から南への干拓は、戦後の昭和21年(1946)に国営横島干拓事業として着手され、昭和42年(1967)に完成した。
加藤清正が干拓に着手してから現在の姿になるまで約400年を要した。
国営横島干拓事業の完了に伴い、旧玉名干拓施設はその役割を終えたが、2010年に国の重要文化財に指定された。
旧玉名干拓施設の長さは約5200m、日本一大きな重要文化財である。


末広開堤防と明丑開堤防の間に末広開樋門群があり、この三つの施設は繋がっている。
川を挟んで同時期に明豊開堤防が造られ、その9年後に大豊開堤防が造られて東端の唐人川まで延長された。
地図の左から右へ、つまり西から東へ、これらの施設を以下に掲載する。

■末広開(すえひろびらき)潮受堤防〜明治28年(1895)、石、1297m


末広開堤防の西端付近から西を見る。戦後の国営横島干拓によって築かれた堤防との間には緑の田んぼが広がっている。
堤防のむこうは有明海、島原半島の山並みが見えている。


 

堤防が切れているところがあり、扉を差し込む溝があるので、水門があった場所だろう。
堤防の内側にまわってみると、堤防には草木が生い茂り、堤防沿いに小さな川が流れていた。



末広開堤防だけがコンクリートを使わずに石のみで造成されているので、とても美しい。
ただし、昭和初期の改修の際に、一部コンクリートを使っているようだ。
こちら側は、かつての海側であるが、こちらにも小さな川が流れている。

■末広開樋門群(末広開二枚戸樋門、末広開西三枚戸樋門、末広開東三枚戸樋門)〜明治28年(1895)、石・コンクリート


末広開堤防の東端にあるのが二枚戸樋門。


六枚戸の標柱のむこうに、西三枚戸と東三枚戸が見える。


堤防の内側から見た西三枚戸。


堤防の内側から見た東三枚戸。


東三枚戸樋門の内部。コンクリートの劣化が進んでいて、このままであれば、やがて樋門に上がれなくなるだろう。

■明丑開(めいちゅうびらき)潮受堤防〜明治26年(1893)、石・コンクリート、1501m



堤防の高さは6mくらい。下部は石で、上部はコンクリート。


堤防の東端から堤防の内側を見る。森のむこう側に堤防がある。このあたりは田植えが終わっていたり、田植えの準備が始まっていたりであった。

■明豊開(めいほうびらき)潮受堤防〜明治26年(1893)、石・コンクリート、1716m


■大豊開(たいほうびらき)潮受堤防〜明治35年(1902)、石・コンクリート、717m


■九番堤防〜安政6年(1859)、石 2015/7/28  K20D/16-45

細川藩家老・有吉家によって築造された。当時は全て人力で、その担い手は若い娘と主婦だったという。


九番堤防を西から見る。


九番堤防を東から見る。

■十番開(じゅうばんびらき)樋門〜慶応2年(1866)、石・コンクリート
2015/7/28  K20D/16-45

ここも細川藩家老・有吉家によって、堤防と樋門が築造された。
港いこいパークとして整備されている川沿いにあるが、川からは遊歩道の真新しい橋が邪魔し、かつ草におおわれてよく見えない。
川の東側にある田んぼのあぜ道へ行くと、南北2基の樋門がよく見える。


十番開北樋門。こちらの気配を感じたのか魚が跳ねた。大きな鯉だった。


十番開南樋門。

■大横島の石塘(いしども)〜加藤清正の干拓遺構

大横島の石塘は、加藤清正を祀る加藤神社近くにあり、石塘史跡公園となっている。石塘とは石で作る堤防のことである。
加藤清正は、菊池川の水路変更と石塘築堤によって新田開発を行った。天正17年(1589)から慶長10年(1605)まで、16年の歳月を要した。
江戸時代初期はここから南は海だったが、江戸、明治、昭和の干拓によって、広大な新田が開発された。


石塘の樋門群。奥が新内井樋、手前左手が越堰、右手が六枚井樋。


新内井樋を反対側から見ると鉄の扉で閉鎖されていた。


新内井樋から六枚井樋を見る。

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