廃墟の風景

吉見百穴よしみひゃくあな軍需工場跡

2007/4/5
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「百穴」の名が文献にみられるのは今から二百年位前で、江戸時代の中頃には「百穴」の呼び名も生まれ不思議な穴として興味をもたれていたと思われます。「吉見百穴」が科学的に検討されだしたのは明治になってからで、内外の著名な考古学者により調査が行なわれ横穴の性格をめぐってさまざまな意見が発表されました。

明治二十年、坪井正五郎博士により大発掘が行われ、その結果人骨・玉類・金属器・土器等が掘り出され、横穴の性格を土蜘蛛人(コロボックル人)の住居であり、のちに墓穴として利用されたものであると断定されました。しかし、大正末期に入って、考古学の発展により各地で横穴の発見発掘の結果、その出土品横穴の構造から横穴が古墳時代の後期に死者を埋葬する墓穴として掘られたものであることが明らかにされ、「住居説」がくつがえされることになりました。そして、大正十二年、「吉見百穴」はわが国の代表的な横穴墓群として国の重要な文化財として史跡に指定されました。

戦時中横穴墓郡のある岩山に地下工場建設が行われ、数十基の横穴がこわされましたが、戦後、吉見百穴保存会の結成により積極的な保存、管理がなされ、その後、昭和三十八年、吉見町に移管され「吉見百穴」は再び多くの人々に愛され、親しまれる史跡となりました。

〜説明板から引用

桜が満開で穏やかな天気の日だった。桜のむこうの岩山にたくさんの穴があるのが、6世紀前半に築かれた横穴式の古墳。
桜の木の少し左に見えているのが軍需工場跡への入口。

 

第2次世界大戦中に、古墳時代の横穴とは別に岩山の数か所に大きな穴があけられ、飛行機関連の軍需工場が造られた。
祖先のお墓を破壊するという愚行が、戦争という狂気の中でここでも行われていた。

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