平家物語への旅 赤間関  05/1/21 平家物語への旅次へ

今を去る八〇〇年の昔、源平最後の合戦に安徳天皇は御歳僅か八才をもって平家一門と共に壇之浦に崩じ給うや赤間関紅石山麓阿弥陀寺境内に奉葬し、建久二年(1191)、朝廷は長門国に勅して御陵上に御影堂を建立せしめ給い、建礼門院御乳母の女・少将の局命阿尼をして奉侍の上、勅願寺として永く天皇の御冥福を祈らしめ給う。朝廷の尊崇きわめて篤く文人墨客の参拝亦枚挙にいとまなし。

明治維新に至るや阿弥陀寺を廃し、御影堂を改めて天皇社と称せられ、明治八年十月七日、勅命をもって官幣中社に列し、地名に依り社号を赤間宮と定め給い社殿を造営せしめらる。

昭和十五年八月一日天皇陛下には勅使を差し遣わされ、官幣大社に御列格宮号を改めて赤間神宮と宣下あらせられ、社殿又改造し輪奐の美整いしが、惜しむべし大東亜大戦の空襲を蒙り神殿以下悉く焼失加ふるに、未曽有の敗戦に依り復興造営は至難を極めしも、本殿祝詞殿以下御復興に邁進、苦節苦闘二十年にして完工、昭和四十年四月、御祭神七八〇年大祭を迎え関門の風光に和する社殿の壮麗は、昔日に倍し実に陸の龍宮と称えらるるに至れり。〜
赤間神宮ホームページ

境内には、平家一門の墓碑七盛塚、盲目の琵琶法師耳なし芳一堂などがあり、宝物殿には、重要文化財の「長門本平家物語」が展示されている。

 


安徳天皇阿弥陀寺稜下から見る。右が水天門、左が安徳天皇稜。
 


水天門から社殿を見る。
  

5月3日の先帝祭には、安徳天皇稜の扉が開かれる。

先帝祭での安徳帝。後ろで見守るのは祖母の二位の尼。2012/5/3
  

明るい陽射しの赤間宮境内とは対照的な七盛塚。落ち椿が哀れを誘う。
 

有盛など七人のほかに、安徳帝を抱いて入水した二位の尼・
時子の墓碑もある。
 
小泉八雲の「怪談」でおなじみの「耳なし芳一」のあらすじは以下の通り〜下関市観光ホームページ
芳一は阿弥陀寺の盲目の僧で琵琶の達人。中でも「平家物語」の弾き語りは見事で、幼い頃から師匠をしのぐ腕前があったとされている。ある日、芳一は深夜外出を繰り返し、不信に感じた僧たちが芳一の行先を探したところ、七盛塚の前で平家物語を奏でていたところを発見される。住職は怨霊を取り除くため、芳一の身体中に般若心経を書き綴ったが、芳一の両耳に経文が書かれていなかったため、怨霊がそれに気付き、その両耳をちぎって立ち去った。以後は怨霊が現れることはなくなったが、いつからともなく「耳なし芳一」と呼ばれるようになった。

高浜虚子の句碑「七盛の墓包み降る椎の露」のむこうに芳一堂。

芳一堂には木彫の芳一像が安置されている。
 

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