平家物語への旅 大里だいり  05/1/23 平家物語への旅次へ

寿永2年(1183)、木曾義仲に都を追われた平氏は幼い安徳帝を奉じて西に逃れ、かつての西の京・太宰府へ落ちた。しかし、豊後の豪族緒方三郎惟義が攻め寄せると聞いて、遠賀郡山鹿城を経て、豊前国柳ヶ浦やなぎがうらにたどりついた。その後、平氏は再起を期して四国の屋島へ向かう。

柳ヶ浦が現在の大里で、古い記録には内裏だいりと書かれている。これは柳ヶ浦に仮御所(仮の内裏)を造営したことに由来する。江戸中期に、内裏から大里に改められた。社殿は、明治35年(1902)、明治天皇の大里行幸の際に休憩所として造営された。現在は戸上神社のお旅所となっているが、この地が安徳帝の仮御所跡と伝えられていることから 「柳の御所」と呼ばれている。

柳ヶ浦を宇佐神宮近くの柳ヶ浦とする説がある。平氏は、宇佐大宮司の館を安徳帝の行在所として神宮に参籠するが神託が得られなかった。駅館川の小松橋のたもとには、前途を悲観して海に身を投げた重盛の三男・清経の供養塔がある。

平家物語の都落ちの心情を描いたくだりは名文である。
海人のたく藻の夕煙、尾上の鹿の暁のこゑ、渚々によする浪の音、袖に宿かる月の影、千草にすだく蟋蟀しつそつのきりぎりす、すべて目に見え耳にふるる事、ひとつとして哀をもよほし、心をいたましめずといふ事なし。昨日は東関の麓にくつばみをならべて十万余騎、今日は西海の浪に纜ともずなをといて七千余人、雲海沈々として、青天既にくれなんとす。孤島に夕霧せきぶ隔て、月海上にうかべり。
 

 
 安徳帝柳御所の石碑(明治11年造立)
 

都なる九重の内恋しくて柳の御所を
立ち寄りて見よ 
平忠度

君住めばここも雲井のうちなるをなお恋しきは都なりけり 平時忠
分けてきし野辺の露とも消へすして思はぬ里の月をみるかな 平経正


御所神社本殿


安徳帝の木像が納められていたという祠


安徳帝が湯浴みに使ったという風呂の井戸。
このあたりの地名はかつては風呂であった
が、今は不老となっている。

もうひとつの柳ヶ浦、駅館川河口付近。

特急ソニックが走る日豊本線の鉄橋のむこうが小松橋。

04/10/11
 

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