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●久根田舎(くねいなか)の安徳天皇御陵墓参考地
(長崎県対馬市厳原町) 2015/5/12 EOS 5D

県道24号線沿いにの久根田舎簡易郵便局近くに案内標識と説明板があり、山に向かって西へ10分ほど登ってゆくと陵墓がある。

紫の桐の花の向こうに説明板が見えたときは感動すら覚えた。


対馬の地頭代であった宗家初代・宗重尚公は、壇の浦合戦後60余年、帝が70歳の時の寛元4年(1248)筑前与志井からお迎えして、久根の地に御所を営んだといわれている。それから5年後の建長5年(1253)4月5日に帝は崩御された。

と説明板に書かれている。

年号や亡くなった日付まで具体的に書かれている例は少ないように思う。

一方、筑前与志井(吉井)には安徳帝の伝説は残っていない。


陵墓を回り込むように石段を登る。


石段を登り切ると陵墓の入口が見える。

●平清経の墓
(大分県宇佐市) 08/1/15 *istD
源氏に追われた平清経は豊前海を転々としたが、前途を悲観して柳ヶ浦の海に身を投げた。

駅館川(やっかんがわ)にかかる小松橋西のたもとに、平清経の墓と伝えられる五輪塔と大きな記念碑がある。

この五輪塔は柳ヶ浦の若宮八幡宮にあったが、のちに清経が入水した場所に近い現在地に移設したものと考えられる。

この写真の右端に写っているのが小松橋で、小松内府平清経にちなんで付けられたものである。

謡曲「清経」の主人公で横笛の名手・平清経は宮崎県の椎葉に逃れたという伝説もある。



 

●今里平家塚
(長崎県新上五島町) 07/10/16 *istDS2
壇ノ浦の戦いに敗れ、西海の島々に落ち延びた平家の十数人が今里の山中に隠れていたが、源氏の追っ手の急なるを知って自害した、と伝えられている。

哀れに思った村人たちがここに葬り、墓石を建てて供養した。現在もなお、「平家塚」称して供養されている。












 

●御崎
みさき(兵庫県香住町余部) 06/2/22
伊笹岬にある御崎には、寿永3年(1184)の壇ノ浦の戦いで敗れた平家の武将、門脇宰相平教盛を大将とする7人が流れ着き、修験者の助けによって住み着いたといわれている。

御崎平内神社には、「百手」という行事が残っている。門脇、伊賀、矢引の3人の平家の武将に扮した少年が的を目がけ100本の矢を射る。平家の復興を願う行事だという。

また、『御崎哀歌』という歌の歌詞の中には、「樫の古木に影宿す平家落人物語り」という一節がある。

現在の世帯数は約20、人口は約80人で、小学校の分校があるのみで、中学生になると、余部駅から香住へ通学する。


←御崎の広場に立つ石碑。
 右端の石には、平家村という文字が見える。
 

●隠蓑
かくれみの(北九州市小倉南区) 05/7/6

薬師寺境内にある左手の祠が安徳天皇の御陵とされている。すぐ近く
に住む方の話では、かつては五輪塔がたくさん並んでいたが、次第に
数が減ってきたので祠を建て、残っていた五輪塔を中に収めたという。

寿永4年(1185)、壇ノ浦の合戦で関門海峡に入水したと伝えられる安徳幼帝は、門司の田野浦へ上陸、松ケ江を越え、長野城主を頼って2、3カ月の間隠れていた。しかし、城主が亡くなってしまい、一行は英彦山に向かって城を出た。横代を通り、当時の城野村、隠簑という場所まで来たときに、源氏の追っ手が来るのが分かった。

おりしも、村では庵寺の屋根の葺き替えの最中。村人は同情し、有り合わせの茅や藁などの簑をもって天皇を隠し、上から藁しびを着せかけて気づかれないようにした。お蔭で天皇一行は、無事に逃れることが出来たと伝えられている。

毎年12月15日には、安徳天皇を偲ぶ祭りと、農村の収穫をよろこぶ儀礼行事として「しびきせ祭」が行なわれる。その年の年少者を安徳天皇に見立てて、藁しびをかぶせて子供の災難をのぞき無事成長を祈る。にぎりこぶし大の安徳天皇のお姿や靴型を収めた藁すぼを供え、祭りが終わると氏子たちがそれぞれに持ち帰る。

また、春には先帝祭と呼ばれるおこもりも行なわれている。
 


●景清洞
(山口県美東町) 05/4/27
壇ノ浦の戦いに敗れた平家の武将・平景清が潜んでいたという洞窟で、洞内には、目の神様を祭った生目八幡をはじめ、景清のどん張、景清明神、兜かけなど景清にちなんだものが多数ある。

平景清は平家の中心人物ではないが、さまざまな伝説があり、能や歌舞伎にも登場する。

景清の生年は不詳で、父は藤原忠清。勇猛で知られ、平氏一門とともに西走して各地に転戦。
壇ノ浦で捕らえられ、1196年に絶食して死亡したとされている。

一方、壇ノ浦から逃亡したという説もある。歌舞伎「景清」では源氏に捕らえら洞窟の牢屋に入れられる。そのようなことから、景清洞の伝説が生まれたのではないだろうか。

 


景清洞は平坦で幅も広く天井も高い。


秋吉台地獄台から景清洞のある方向を見る。

●岡益の石堂
(鳥取県鳥取市) 05/4/23

6m四方の大きな岩で造られた基壇の上に、厚さ40cm程の6枚の壁石に囲まれた石室があり、中央に高さ173cmの円柱が立っている。

この円柱はエンタシスという胴張りで、その上の乗る斗形にはうず巻を入れた蓮弁と中国のものに似た忍冬文様が刻まれ、中国六朝時代の様式を伝えている。建造年代は7世紀後半の白鳳時代と見られ、何の目的で造られたのかは謎である。

近年は岡益廃寺の一施設との見方が有力であるが、一方で安徳天皇の墓だという伝説もあり、明治29年に御陵参考地に指定され、宮内庁で管理されている。

風化が激しいのか、現在は覆いがされていて、よく見えないのが残念である。






 


●高畑の平家塚
(山口県下関市) 05/2/23

平家塚への登り口。


平家塚の五輪塔。


平家落人の霊を祀った霊神社。
下関市の前田から長府の功山寺前へ通じる県道246号線は、かつての
旧山陽道で、野久留米街道と呼ばれていた。この街道の途中から北へ折
れた先に、高畑の集落がある。

壇ノ浦から陸に上がった平家の落人たちは、街道伝いに高畑の集落へと
辿り着き、隠れ住んだと伝えられている。壇ノ浦から高畑までは約5k
m、壇ノ浦からすぐ近くのこの地で、果たして源氏の追跡を逃れること
ができたのだろうか。

高畑の平家塚は、その落人たちの墓で、盛り土の上に五輪塔がいくつか
残っている。平家塚からさらに奥へ入った墓地のそばに、「旗かけの松
跡」という石碑がある。携えていた平家の赤旗を近くの松の木に掛けて、
しばしの休息をとったという。

さらに奥へ進むと、突き当たりに霊神社がある。


旗かけの松跡。

●安徳天皇西市御陵墓参考地
(山口県豊田町) 04/9/13
壇ノ浦で二位の尼にいだかれて入水した安徳帝の亡骸が流れ着いて漁師の網にかかり、ここに埋葬されたという言い伝えがあり、宮内庁の管理地となっている。

ここは木屋川の上流豊田湖畔、壇ノ浦から東へ流され周防灘から小月へ、さらに木屋川をさかのぼったことになる。













 

●二位の浜
(山口県日置町) 03/6/1
壇ノ浦で、安徳帝の祖母・二位の尼は幼い安徳を抱き海へ身を投じた。その亡骸が潮に乗ってこの浜に流れ着いたと伝えられている。

ここは山陰長門海岸、壇ノ浦からは随分離れている。壇ノ浦から関門海峡を西へ流され、玄界灘から対馬海流に乗ったことになる。

休日にはサーフィンをする若者たちでにぎわう二位の浜には、ハマユウに守られるかのようにひっそりと「二位局碑」と書かれた石碑が建っている。









 


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