平家物語への旅 熊野  03/9/19-21 平家物語への旅次へ

寿永3年(1184)3月15日、従者3人を連れて屋島を脱出した平維盛(清盛の長男である重盛の長男)は、紀伊に上陸した。高野山に滝口入道(重盛に仕えていた斉藤滝口時頼)をたずね、滝口入道と共に熊野へ向かった。一行は、この川を渡れば悪業や煩悩が洗い流されると昔から言い伝えられている岩田川を渡り、熊野本宮大社へ参拝した。

翌日、本宮から船で新宮へ下り、神倉神社、飛鳥神社へ参拝し、「駒とめて袖うち払ふ陰もなし佐野の渡りの雪の夕暮れ」と新古今和歌集に詠まれた佐野の松原を経て、那智山へ参詣した。那智の僧の中に維盛を知っている者もいて、その変わり果てた姿に涙した。

熊野三山の参詣を終えた一行は、浜の宮から船に乗り沖合いの山成島に上陸した。維盛は松の幹を削って、「祖父太政大臣平朝臣清盛公法名淨海・親父小松の内大臣の左大将重盛公法名淨蓮・三位の中将惟盛法名浄園、年27歳、寿永3年3月28日、那智の沖にて入水す」と書き付けて、再び船に乗り沖へと漕ぎ出だした。

滝口入道が鐘を打ち鳴らす中、惟盛は「南無」と唱えて海に飛び込み、ふたりの従者が続いた。3人目の従者武里も飛び込もうとしたが、滝口入道に「主の遺言を忘れたか、屋島へ帰り主の菩提を弔え」と諭された。滝口入道は高野山へ帰り、武里は屋島へ帰って行った。


明治22年まで熊野本宮大社があった大斎原おおゆのはら

 
 熊野速玉大社

 
 神倉神社のごとびき岩。維盛もこの岩を見ただろうか。


  

補陀洛渡海は、南方海上にあるとされた補陀洛世界に往生または真の観音浄土を目指して船出する宗教的実践行である。維盛も滝口入道のすすめでこの苦行に臨んだ。補陀洛山寺には、補陀洛渡海に使った船を復元したものや維盛の墓があるとのこと。


熊野那智大社


補陀洛渡海の出発点補陀洛山寺。隣に浜の宮王子がある。
  

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