平家物語への旅 義経伝説の地 平家物語への旅

●須賀神社(石川県珠洲市三崎町) 2012/10/1 K20D
義経一行が奥州へ落ち延びるため航海中、珠洲の沖合いで嵐に遭った。遭難を恐れた義経は、岬権現(須賀神社)に立ち寄って航海の安全を祈った。嵐はやみ、海は穏やかになり、無事に航海を続けることができたという。


作家村上元三の句碑。義経は雪に消えたり須々の笛
   
●義経神社(北海道平取町) 06/6/15
寛政10年(1798)近藤重蔵が東蝦夷地を探検した際に、この地のアイヌが義経を崇拝していることを知り、義経の像を、平取の地に寄進安置した。境内には義経資料館があり、付近一帯は義経公園となっている。


なぜか、常盤御前と静御前の石碑がある。
   
●弁慶岬(北海道寿都町) 06/5/27

赤白の弁慶岬灯台のすぐ近くに弁慶の銅像。台座には「想望」の文字。

弁慶岬からは積丹半島の雪山が見える。
弁慶の舎弟ともいうべき常陸坊海尊が、義経再挙の兵を募って蝦夷へ向かったという情報を得た弁慶は、毎日この岬の先端に立ち海尊の到着を待っていたが、海尊軍団の船影を見ることはできなかった。そんな弁慶の姿を見ていたアイヌたちは、この岬のことをいつしか弁慶岬と呼ぶようになったという。アイヌ語のベルケイ(裂けた土地の意味)が訛ったという説もある。

   
●静御前の墓(山口県阿東町) 05/11/23

静御前の墓所入口付近。

左から義経息男、静御前、静御前の母の墓。
NHKの大河ドラマにあやかったのか、「静御前之墓入口」という真新しい標識が立った。

説明板には静御前について書かれていたが、ここに静御前の墓があることの由来については書かれていなかった。

ここも、全国各地にある静御前の墓のひとつであろうが、墓の前に立って手を合わせると、しみじみとしたロマンを感じる。
   
●竜飛崎(青森県外ヶ浜町) 05/10/23
津軽半島の最北端・竜飛崎の集落の漁港にくっ付いた岩がある。島の向こうには北海道の島影が見えている。

これが、義経がここから北海道へ渡るときに、帯を締めなおしたという伝説の帯島である。取って付けたような話であるが、このような類の義経伝説が多い。













   
  
●三厩みんまや(青森県外ヶ浜町) 05/10/23

義経が海上安全を祈って海神に捧げた兜が岩になったという甲岩。
平泉から逃れた義経主従は、蝦夷を目指してこの地にたどり着いた。海が荒れていたので、義経は岩の上で3日3晩祈り続けると、菩薩が姿を変えた老人が現れ、「龍馬を3匹与えよう」と告げた。翌朝、海辺の大きな岩に3匹の馬がつながれており、義経はこの馬に乗って津軽海峡を越えたという。この伝説にちなんで大きな岩を厩石まやいし。3頭の馬だからここを三厩。

江戸時代初期に個性的な造形の仏像を彫った僧・円空は、義経が蝦夷に渡った約500年後に、三厩を訪れた。厩石の上で観音様が光っているのを見つけ、海岸の流木を削って観音像を彫った。円空は高台にお堂を建てて祀った。明治初期に義経伝説にあやかり、龍馬山義経寺と名を変えた。




 

義経寺本堂の笹ささりんどうの家紋がついた扉。

義経伝説の厩石。
   
●平泉寺(福井県勝山市) 91/7/23

杉並木と石畳の参道。
「義経記」によれば、「横道なれども寄ってまいろう」と義経の意志で平泉寺に立ち寄ったという。

義経主従が平泉寺へやって来たのは、文治2年(1186)の初夏のころだった。奥州をめざす一行が、ルートから東へ大きくそれた平泉寺へなぜ立ち寄ったのだろうか。

当時の平泉寺は、山伏8000人を要する一大勢力だった。奥州へ一旦退くものの、決起する際の協力を仰ぐためだったといわれている。

ひとときの休息の後、義経主従はふたたび奥州へ向かった。


平泉寺については→よみがえる中世都市 白山平泉寺








 

   
●医王寺(福島市飯坂町)甲冑堂(白石市斉川) 04/4/24

墓は割れていて支柱で囲まれている。

佐藤兄弟の妻、楓と初音の甲冑姿。
義経郎等の四天王は、武蔵坊弁慶、伊勢三郎、佐藤継信・忠信兄弟である。兄継信は、屋島の戦いで義経を守るために先頭に進み出て戦死した。弟忠信は、義経を吉野山から脱出させるために踏みとどまり、のちに四条室町で自害した。

医王寺にある兄弟の墓は、義経が供養したものと伝えられる。

田村神社甲冑堂には、夫の甲冑を身に着け、兄弟の母親を慰めたという妻たちの木像がある。甲冑堂は明治初期に焼け、昭和14年に再建された。

芭蕉もおとずれていて、下記のように記述している。「古寺に一家の石碑を残す」というのが、医王寺の佐藤兄弟の墓のことで、
「二人の嫁がしるし」というのが、甲冑堂の夫人像のことであろう。

佐藤庄司が舊跡は、左の山際一里半斗に有。飯塚の里鯖野と聞て尋たずね行に、丸山と云に尋あたる。是、庄司が舊舘也。梺に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かはらの古寺に一家の石碑を殘す。中にも二人の嫁がしるし、先哀也。女なれどもかひがいしき名の世に聞こえつる物かなと、袂をぬらしぬ。墜涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞へば、爰に義經の太刀、辨慶が笈をとゞめて什物とす。「笈も太刀も五月にかざれ帋幟」五月朔日の事也。
   
●満福寺(鎌倉市腰越) 02/9/24

満福寺のすぐ下は江ノ電。

境内の「弁慶の腰掛石」。こういう類のものが各地にある。
一の谷、屋島、壇ノ浦と大勝利した義経に対して頼朝の態度は冷たかった。鎌倉に向かった義経は腰越で足止めされ、満福寺で、のちに腰越状と呼ばれる釈明書をしたためたが、頼朝から拒絶され京へ戻る。

義経は、約1か月、苦悩の日々をここで
すごした。








 
   
●雨晴あまはらしの岩(富山県高岡市雨晴) 03/5/17

右手の木の茂みに雨晴の岩がある。

義経の文字が刻まれた石碑。
にわか雨にあった義経主従が、雨宿りをし、雨が晴れるのを待ったという岩窟。弁慶が岩を重ねて造ったという。

景勝地の雨晴海岸にあり、氷見線の雨晴駅から近い。ここから富山湾越しに見る立山連峰は絶景であるが、おとずれた日はかすんでいて見えなかった。






 
   
●義経の船隠し岩(石川県羽咋市関野鼻) 01/6/2
元暦2年(1185)、頼朝の厳しい追手から逃れる義経と弁慶が、奥州に下る途中に折からの海難を避けるため、48艘の船を隠したという岩。岩の裂け目のような狭い場所であり、どう見ても48艘もの船が入るとは思えない。

奥州平泉へのルート上にある北陸には、たくさんの義経伝説が残っている。安宅関で詮議を受けるシーンは、「勧進帳」の名場面であるが、その後、船で能登半島を北上したのだろうか。










 
   

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