石見銀山街道

(2)九日市〜三次

  ■Index ■Next
2015/5/30-31 K-7

●酒谷
銀山街道はほぼ県道166号線に沿って進む。


九日市を出て沢谷川を渡る直前の旧道に馬頭観音がある。
馬頭観音は家畜の守護神で、旅の安全を守る菩薩でもあった。


その先で再び沢谷川を渡るが、太平橋の下に西側の橋台となった巨岩がある。当時は、この岩に丸太を渡して橋にしていた。

酒谷のカツラを過ぎるあたりから、石見と出雲の国境の峠に向かって勾配が厳しくなる。


酒谷口番所跡の石碑。国境まで1kmくらいのところにあり、大森代官所の役
人が常駐して監視を行っていた。


国境には経木がある。草に隠れてよく見えなかったが、経木の土台の石組みは江戸時代のもので、経木は定期的に建て替えられているようである。

●古市の古道
国境を越えてすぐに県道と別れ左へ、古市の旧道を進む。


石次(いしつぐ)の一里塚跡。 飯南町では街道沿いに標柱がたっている。


銀山街道沿いにある古民家「倉屋」。


土橋を渡る。


「古市の古道」の標柱がたつ。


杉林の中を進むと分岐点に馬頭観音。銀山街道は右へ進む。

●赤名
峠を下りきったところが赤名宿。赤名宿入口で、銀山街道と松江からの出雲街道が合流する。





赤名の町並みの入口にある道標は安政3年(1856)建立。
ハ石州 さか谷 大田 大もり 五百らかん 辿ってきたなじみの地名がある。

銀山街道から少しそれるが、右手の丘に赤穴八幡宮がある。この神社には、「赤名愁訴」とよばれる古文書の写しが残っているという。愁訴とは苦しみや嘆きを訴える訴訟行為のことである。

前年の旧暦10月からその年の9月までに生産された灰吹銀は、10月下旬から11月上旬にかけて大森から、伝馬助郷という制度によって運ばれた。伝馬助郷とは、宿駅や周辺の村が銀 を運搬するための人や牛馬を提供することである。新暦でいえば12月に近い、ましてや中国山地、雪の峠越えは大変だっただろう。

文化9年(1812)の「赤名愁訴」という訴文は、助郷の大変さを大森代官所へ訴えたものである。
訴文の内容はおよそ次のようなものである。

銀は九日市宿を早朝出発し午前8時ごろに赤名宿へ到着する。赤名宿に集まった近隣21か村の人夫400人、牛馬300頭が銀の輸送を行う 。
赤名峠を越えて三次宿まで26キロあり、三次に到着するのは夜中となる。馬を持っている百姓は村にはほとんどおらず、人馬を雇えば日当を含めて大変な出費となり21か村は困っている。
昔のように布野宿までとしてほしい。


訴えは叶えられず、銀の輸送が中止される明治まで続いた。

この古文書を見ることができる訳ではないが、どんな神社なのか赤名八幡宮に立ち寄ってみた。社殿の裏に、樹齢千年の杉の古木が2本あった。銀山街道を行く「哀しみの隊列」をこの杉は見ていたのだろうか。
 

  
  赤名八幡宮の樹齢千年の大元(おおもと)杉。左手にもう1本ある。

●赤名峠
銀山街道は赤名トンネルの北口付近から左に入り、旧国道54号線と合流して、出雲と備後の国境の赤名峠(標高630m)に達する。
峠を越えた先で、銀山街道は旧国道54号線と分かれる。


赤名峠の頂上。出雲と備後の国境、現在の島根と広島の県境でもある。


天保3年(1822)の国境碑。


布野町出身の歌人・中村憲吉の歌碑がある。
国境にいざよふ雲や 国原の雪も時雨も この御山より


広島県に入ると、標識が旧出雲街道にかわる。

●布野
国道54号線沿いに南下し上布野で道が分かれるが、一番西が国道54号線、一番東が旧出雲街道(銀山街道)、真ん中が明治時代の道である。


入口に常夜灯がたっている。銀山街道は左へ、明治時代の道は直進する。


明治時代に道の中程、中村憲吉の旧居跡に記念文芸館がある。


知波夜比売(ちはやひめ)神社の先に石の道標がある。
右日下 左みよし


石の道標を左へ昔ながらの道を進むと、真光寺の石垣のそばに出る。

真光寺は中村憲吉の菩提寺で、歌碑があった。 山越えて雨に来たれる檀那てら 昔の塀の百日紅のはな

●神野瀬川の渡しと山家(やまが)の一里塚跡
真光寺前で県道62号線を横断して直進すると、神野瀬川に達する。


川へ向かって坂道を下る。


神野瀬川の渡しがあった付近には、朽ち果てようとする吊り橋があった。

川から坂道を登って行き、道が平らになったあたりの集落に山家の一里塚跡がある。

   

西側の塚は失われているが、東側には石垣と塚の上に松の根が残っている。この松は「蟹足の松」といわれ、高さが18mあったという。

●三次
市道を南下すると、西城川沿いの県道39号線と合流する。合流地点から1kmくらいは川沿いの崖を行く難所だったという。
そのまま直進し県道と分かれると、三次のまちなかへ入る。

  

県道と分かれて300mほど進んだところの薬局の角に石の道標がある。
左ハひろしま 右ハいづも大社 などの文字が見える。

銀山街道から少し西へそれて、運甓居(うんべききょ、有事に備え朝夕100枚の瓦を運んだという中国の故事にちなんだ)をたずねた。
三次小学校の北に、茅葺きの古い家屋が残されている。
頼山陽の叔父・頼杏平(らいきょうへい)が、文政11年(1828)から三次町奉行をしている時に住んでいた屋敷である。
頼杏平は「赤名愁訴」のときに広島藩を勝訴に導いているので、赤名峠から北の広瀬藩の人々には不人気だそうだ。


運甓居の玄関への道。管理人の方の清掃が行き届いている。




運甓居の近くにある「三次社倉」
頼杏平は飢饉に備えて穀物を貯蔵するための倉を建てた。

三次本通りの旧街道の様子は、2015/11/16に取材した石見銀山街道・三次をご覧ください。