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イザベラ・バードの足跡をたずねて(秋田県)  

秋田県に入ったイザベラ・バード は、院内、湯沢、横手、六郷と進み、神宮寺から久保田(秋田市)まで雄物川を船で下った。
秋田から米代川沿いを進み、矢立峠を越えて青森県へ入った。


■院内
2014/11/3
私たちは 主寝と雄勝の二つの峠を越えたが、十二時間かけてたった十五マイル(24km)であった。
私たちのとっている道を進んで行ったのでは、この地方を通りぬけることはとてもできないだろう、とどこでも言われた。・・・・・
上院内と下院内の二つの村に、日本人が非常に恐れている脚気という病気が発生している。
そのため、この七ヶ月で人口約千五百人のうち百人が死亡している。
久保田(秋田市)の医学校から二人の医師が来て、この地方の医師の応援をしている。


院内関所跡。この関所は院内銀山の警備を行っていた。


3階建てもある、ちょっと変わった様式の院内の家並み。

■湯沢 2014/11/3
翌朝、杉の大きな並木の下の泥道を進み、電柱がなくなっているのを残念に思いながら馬で九マイル(約15km)行くと、湯沢についた。
これは人口七千の町で、しゃくにさわる遅延がなかったならば、院内ではなくて、ここに宿泊するはずであった。
ここへ来てみると、数時間前に火事があって七十戸焼失したという。その中に私が泊まるはずの宿屋もあった。

家事の直後で
湯沢の町は騒然としていて、バードは湯沢によい印象を持てなかったようで、早々に羽州街道を北へ横手へ向かった。


小町堂。雄勝町小野は小野小町の生誕地とされている。


湯沢城下の南口にある吹張一里塚は、樹齢約400年のケヤキ。

  
湯沢で一番目立つ建物、両関酒造は明治初期の創業。


日本名水百選「力水」は湯沢城があった中央公園への登り口にある。


旧雄勝郡会議事堂は明治23年の竣工。バードが通った頃にはなかった。

湯沢市岩崎・八幡神社の一番奥の水神社そばにある鹿島様。
他所からの邪悪な霊や疫病の侵入を防ぐために置かれた。
国道13号線沿いにもあるということだが見つけられなかった。





石段を登った所にある狛犬は猿のような格好をしていておもしろい。

■横手 2014/11/5
横手は人口一万の町で、木綿の大きな商取引きが行われる。
この町のもっとも良い宿屋でも、りっぱなものは一つもない。
町は見ばえが悪く、臭も悪く、わびしく汚く、じめじめしたみじめなところである。

とイザベラ・バード は悪態をついているが、筆者の印象では町の中を横手川が流れる美しい城下町だった。
バードは、横手で食べられると期待していたビフテキが食べられなかったそうで、そのせいもあったのかもしれない。


平源(ひらげん)は明治6年創業、火事にあい大正15年再建。バードが泊ま
ったのは平源かもしれない。この旅館は立派だっただろう。国有形文化財


平源の前にある柿羊羹の木村屋。明治35年創業、国有形文化財。
バードが通った頃にはなかった。

バードは、この町には立派な旅館は一つもない、と書いているが、羽州街道沿いにある平源旅館は立派な旅館だったと思われる。


作家石坂洋次郎が現横手高校の教師として4年間、その後2年間住んだ家。「青い山脈」「山と川のある町」は横手での経験が背景となっている。


石坂洋次郎旧居のすぐ近く、羽黒町の武家屋敷跡付近。
景観重点地区に指定されている。


横手城があった横手公園から見る「山と川のある町」。遠くに鳥海山が浮かんでいる。

 
横手へ行くことがあったらぜひたずねてみたいと思っていたのが日新館である。
明治35年、旧制横手中学校の英語教師として赴任してきたアメリカ人のために建てたもので、現在は個人宅で無料で公開している。
明治期の木造洋風住宅としては、秋田県内唯一の建物で、県指定の文化財となっている。
外観の写真を撮っていると、「中に入られますか」と物腰のやわらかな年配の女性が招き入れてくださった。
「トイレをお借りしたい」というと、昔使用していた木製の洋式トイレを見せていただき、その隣の部屋にある水洗トイレに案内された。
バードは旅の途中、トイレには苦労したのではないだろうか。

■六郷
2014/11/5
横手を出ると、非常に美しい地方を通過して行った。山の景色が見え、鳥海山がその雪の円屋根ををときどきのぞかせた。
雄物川は最近の出水で土手を崩し橋を流していたので、二艘の危なっかしい渡し舟で横切った。
そして六郷という人口五千の町に着いた。ここはりっぱな神社や寺院があるが、家屋は特にみすぼらしかった。

バードは六郷で葬儀に参列し、そのことをかなり詳しく書いている。
六郷は湧水の郷で日本名水百選となっている。幕末にここをおとずれた菅江真澄は、湧水池のスケッチをたくさん残している。
バードは、関心がなかったのか湧水については何も書いていない。


明治7年創業の栗林酒造。


バードが葬儀に参列した本覚寺。楼門が修理中だった


御台所清水。清水と名付けられた湧水が30か所ほどあるが、中には枯れているものがあった。


ニコテ清水。この湧水を使ってニコテサイダーが造られている。


八千代酒造は大正時代初期の創業。

■神宮寺
2014/11/5
神宮寺に着くと、私は疲れて、それ以上進めなかった。
低くて暗く、悪臭のする部屋しか見つからず、そこは汚い障子で仕切ってあるだけで、ここで日曜日を過ごすのかと思うと憂鬱であった。
片側からは黴の生えた小庭が見え、ぬるぬるした藻類が生えていた。

六郷を出たバードは、大曲を通って、玉川を舟で渡り、神宮寺に着いた。
途中山越えなどもなく平坦な道だったはずであるが、なぜ疲れたのかは書かれていない。


玉川のは現在、玉川橋がかかっている。
玉川の渡しは、左手後方から舟に乗り、玉川橋の下を通って右端奥に上陸したと思われる。下流に見えている三角形の山は神宮寺山。
いくら疲れていたとしても、バードも神宮寺山を目にしたことだろう。

バードは現在のJR神宮寺駅付近に宿泊したようであるが、神宮寺駅付近ではレトロな建築が目に付いた。


福乃友酒造は大正2年の創業。


JAの倉庫。


バードが舟に乗り込んだ神宮寺浜跡付近。対岸に神宮寺山。


四十二マイルの舟の旅は快適であった。
急流といってもさざ波を立てるほどで、流れは早かった。
岸辺は静かで美しく、ほとんど人影もなかった。


翌日、バードは神宮寺浜から舟に乗って雄物川をくだり、9時
間後に久保田(秋田市)に着いた。


 

■久保田 2015/10/12 K-7
バードは雄物川から旭川をさかのぼり、秋田市の四丁目橋付近で船を降りたと思われる。近くの上等な宿屋に泊まり、久保田に4日間滞在した。

全体としては、私は他のいかなる日本の町よりも久保田が好きである。たぶんこの町が純日本的な町であり、また、昔は繁栄したが今はさびれているという様子がないためであろう。

私は、もうヨーロッパ人に会いたくはない。実際に、私は彼らを避けるために遠く離れた所へ行こうとしている。

バードがヨーロッパでどんなん境遇にあったのか詳しくは分からないが、「ヨーロッパ人には会いたくない」と書いているのは、余程の何かがあったに違いない。

バードが久保田へ来たのは1878年で、秋田銀行本店が建てられたのは1912年、当然のことながらバードは目にしていないが、
四丁目橋のすぐ近くにあるので立ち寄ってみた。今は赤れんが郷土館となっているが、ここをたずねるのは20年ぶりくらいだった。

 

■土崎
2015/10/12 EOS 5D

土崎神明社の小さな本殿。最近改築されたようで真新しかった。
久保田を出発した日、バードは土崎神明社の例祭・土崎曳山まつりに遭遇した。

男も女も子どもも、荷車も人力車も、警官も乗馬者も、今祭りをやっている港へみな急いでいる。港は久保田の荷揚げ港で、このみすぼらしい町では神明という神の誕生日を祝って祭りをしている。

人力車がそれ以上進めなかったので、私たちは車から降りて群衆の中にわき入った。群衆はせない通りの中をぎゅうぎゅう押し合っていた。

このあと、バードは祭りの様子を詳細に記述している。それほど、この祭りが気に入ったのであろう。バードは祭りは3日間行われたと書いているが、現在は2日間になっている。詳しくはこちら

■八郎潟 2015/10/12 EOS 5D
土崎から八郎潟を左に見て北上する。

港から鹿渡(かど)までの左手に、非常に大きな潟がある。約17マイルの長さで、幅は16マイルである。

八郎潟は、狭い水路で海と連絡し、真山(しんざん)と本山(ほんざん)と呼ばれる二つの高い丘に守られている。

1マイルは1.6kmであるから、長さ約27.2km、幅25.6kmで、当時は琵琶湖に次ぐ日本第2位の湖であったが、干拓によって陸地化され、大幅に縮小された。

←三倉鼻公園から見た風景。
  手前に見えているのが東部承水路、
  遠くに横に広がって白く見えているのが八郎潟残存湖。

■米代川 2015/10/12 K-7 EOS 5D
川の土手まで来ると、たっぶり400ヤードもある川は、静かに不気味な音を立て、水車を動かす流水のように渦巻きながら流れていて、
役所から人馬の渡河禁止の命令が出ていた。


バードは、羽州街道と能代道の追分である鶴形に出て、ここから東へ向かった。連日雨の天気だったようだが、筆者がおとずれた日も雨だった。
富根から峠を越え、渡河禁止を押し切って、切石という集落で小繋に向かう船に乗る。
濁流の中を進み、二ツ井付近で屋形船とぶつかりそうになるが、何とか小繋に到着する。

富根の駒形橋の手前には一里塚跡があり、芭蕉塚(芭蕉句碑)と金比羅神社の碑がたっている。

句碑は難しい字で書かれているが、
しばらくは 花の上なる 月夜かな
有名な句である。

芭蕉は象潟までしか来ていない。裏を見ると弘化四年(1847)の銘があり、芭蕉の門人か芭蕉を慕う人が建てたものであろう。

江戸時代末期に建てられたとは思えないピカピカの句碑である。



句碑のとなりにある金比羅神社の碑は文化13年(1816)の建立。
盛土がしてあって一里塚のような形をしている。

バードが乗った船が屋形船とぶつかりそうになった地点がきみまち阪県立自然公園から見えるという。
このあたりの羽州街道は険しい山道だったというが、きみまち阪というのは、1881年にここをおとずれた明治天皇へ皇后からの旅を気遣う手紙が渡されたことに由来する。バードがここを旅した3年後のことである。


バードが乗った船が屋形船とぶつかりそうになったのがこのあたり。七座山を巻くような形で米代川がカーブを描いている。


明治天皇へ贈られた皇后の歌。


白い石と紅葉の対照が美しかった。磨崖仏の跡か?

■矢立峠
2015/10/12 K-7
バードは、大館から北上し矢立峠へ向かう。
かつての国境は矢立峠の頂上付近にあったが、現在の県境は矢立峠を越えたところにある。
バードがここを通ったのは1878年、明治新道が開通したのは前年の1877年であるが、バードは新道を通ったのではないだろうか。
バードはその時の感想を次のように書いている。

私は日本で今まで見たどの峠よりもこの峠を誉め讃えたい。
光り輝く青空の下であるならば、もう一度この峠を見たいとさえ思う。
この峠は(アルプス山中の)プルーニッヒ峠の最もすばらしいところとだいぶ似ており、ロッキー山脈の中のいくつかの峠を思わせるところがある。

しかし、いずれにもまさって樹木がすばらしい。
孤独で、堂々としており、薄暗く厳かである。
その巨大な杉は船のマストのように真っ直ぐで、光を求めてはるか高くまで、その先端の枝をのばしている。
藪になっているのは、湿って木陰の場所を好む羊歯類だけである。

樹木はその香ばしい匂いをふんだんにあたり一面に漂わせ、多くの峡谷や凹地の深い日蔭で、明るく輝く山間の急流は躍りながら流れ、
そのとどろき響きわたる低音(バス)は、軽快な谷間の小川の音楽的な高音(トレブル)を消していた。
旅人が草鞋(わらじ)を踏みながらやってきて、この静寂を破るようなこともなかった。
鳥のさえずる声もなければ、虫のすだく音もなかった。


←出羽・陸奥国境付近にたっている
  イザベラ・バード記念標。

 関連ページ 羽州街道矢立峠