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唐津街道

青柳〜大宰府へ通じる道が分岐する 2003.7.15
E-100RS
    


西構え口付近の大宰府神社道の道標。
むこうの道が大宰府へ通じている。
 

青柳宿は、唐津街道の福岡藩に属する11宿の1宿で,福岡と赤間の中間にあり、いわゆる内宿通りの要衝であった。御茶屋(御別館)や上・下の町茶屋のほか、宿屋や商家などが軒を連らね、福岡藩・唐津藩、後には薩摩藩も参勤交代の休泊地とした。

往来の旅客の休息、宿泊するものも数多く、問屋場では荷物の運搬に要する人馬の継立てをするなど、当地方の交通・経済の中心地であった。問屋場の裏の夫小屋は最近まで残っていた。また、西の構え口の一部は今も保存されている。 〜説明板より引用


町の真ん中あたりで大きく道が曲がっている、いわゆる「鍵の手」。
正面に見えるのが青柳醤油店。
 

青柳四つ角の川原観音。

西構え口趾。

青柳宿の先にある太閤水。
福岡県内には、太閤水と名付けられた井戸が数か所残っている。今は涸れてしまったのか、蓋がしてあるので分からない。
 

天正15(1587)年関白豊臣秀吉が、当時、九州の大部分を征服していた島津義久に対抗し、ただ独り立花の孤城を死守し続けた立花宗茂(立花道雪の養子)を助けて、3月自ら軍を進め、遂に島津氏を降し九州を平定しました。その帰途6月24日、ここで馬を休め自ら清い水を汲んで飲んだ所です。往路この地で水を求めたとき良い水がなかったので、同行していた堺の茶人「津田宗友」が、この崖下に掘り当てた湧き水です。秀吉は、このことを聞くと即座に「宗友水」と名付けましたが、寛永5年(1626年)京都大徳寺の僧「江月宗玩」(宗友の子)が立ち寄った際「飯銅水」と改めさせ、後の人が石畳の井戸を造り太閤秀吉にちなんで「太閤水」と呼ぶようになりました。〜「太閤水」の説明板より引用