丸亀街道

金刀比羅宮へ

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    2014/6/24 EOS 5D

■丸亀街道の終点付近 

現代の参詣者は車や電車でやって来る。JR琴平駅前にも灯篭が並ぶ。

駅前を進むと、石造りの柵に寄進者の名前が刻まれている。


左折して新町商店街を通り、表参道へ向かう。
その途中の左手にあるのが「並び灯篭」、嘉永5年(1852)から慶応3年(1867)にかけて寄進されたものである。

■金刀比羅宮へ
   

参道にはたくさんの店がある。ここはまんじゅうの「灸まん本舗石段や」。

さぬきうどんの「本家とらや」。建物は虎屋という江戸時代の旅籠。
   


参道の途中にある大門。ちょうちんには、「金」ではなく「人が長く平和に」を
デザインした文字が書かれている。ここまで365段/785段、約半分。


大門をくぐった先は平らで、5人百姓といわれる特別に営業を許可されている露天商がいて、金比羅あめを売っている。


手水鉢の下の石像。まさに縁の下の力持ち。


美しい形の灯篭が並んでいる。


参道が右へ直角に曲がった所にあるのが旭社で国指定重要文化財。ここまで628段/785段。
天保8年(1837)の建立で、見事な彫刻が施され灯篭の形も美しい。神仏分離以前は松尾寺の金堂であった。
万延元年(1860)、次郎長の代参で50両と刀を奉納するためやって来た森の石松さんは本宮と間違えて、ここのみ参拝して帰ってしまったという。
確かに本宮よりも立派であり、今は間違いを防ぐために「旭社」と書かれた大きな木札が立っている。
石松さんが奉納した刀「五字忠吉(ごじただよし)」は宝物館に展示されているし、石松さんは請書をもらっているようなので、
松尾寺でも参拝を受け付けていたのであろうか。このあたりが、神仏習合の融通の利くところである。

余談であるが、石松は路銀(旅費)として30両渡されたというから奉納金50両と合わせて80両になる。
幕末の万延小判の重さは1枚3.3gと軽く、80両は約250gで、携帯電話2個分くらいの重さでしかない。
幕末の1両の価値はそばの料金を基準にすると20万円くらいといわれているので、石松の旅費は600万円だった。
当時の旅の記録によると、江戸から金比羅宮までかなり贅沢に旅して往復日数約2か月、旅費は5両(100万円)だった。
次郎長は出発前に、「往復四百里、三月あったらゆっくりだろう」と石松に言っている。浪曲なので誇張されているのか、日数も旅費もかなり多い。
浪曲「石松金比羅代参」はこちら


旭社のすぐ先にあるのが賢木門(さかきもん)、ここまで642段/785段。
1本の柱を逆に取り付けたことから「逆木門」とよばれていたが、明治12年(1879)の改築の際に、「逆」の字を嫌って「賢木門」と書くようになったという。
逆さ柱は宝物館に保存されている。
この先の左手に最後の石段があり、上り切ると本宮である。


本宮。ここまで785段。石段の下から40分かかった。奥の院までは1365段であるから、さらに580段。


本宮の北東にある展望台から讃岐平野を見る。
ここは標高251m、眼下をJR土讃線の列車が通過し、遠くに讃岐富士の飯野山(標高422m)が見える。

■金刀比羅宮の周辺

参道入口付近の東側で見かけた建物。
酒の資料館「金陵の郷」の外壁かもしれない。

参道から西へ、金丸座の手前にある仏閣のような琴平町公会堂。
昭和7年(1932)の建造、登録有形文化財。


旧金比羅大芝居「金丸座」。天保6年(1835)の建造で、現存する日本最古の芝居小屋。
昭和45年(1970)に国の重要文化財に指定され、昭和47年(1972)から4年をかけ現在地に移築復元された。
昭和60年(1985)から毎年4月に「四国こんぴら歌舞伎大芝居」の公演が行われるようになった。

 
金倉川にかかる鞘橋。登録有形文化財。最初は元禄年間(1688-1703)にかけられ、何度も流失。
現在のものは明治2年(1869)の建造で、明治38年(1905)架け替え工事の際に現在地へ移築後は神事専用となり、年3回のみ使用されている。