山陽道

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赤間関〜長府 04.7.14
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●山陽道西の基点


亀山神社下に立つ山陽道碑。側面には「
長門国豊浦郡赤間關」と刻まれている。

古代において、幹線道としての山陽道は都と大宰府を結んでいた。外国の使節が通行することが想定されたため、七道の中で唯一の大路に格付けされ最も重視された。平城京、平安京などの都の変遷に応じて道路の東端は変化した。道幅は約6mから9m、道筋は直線的で各国の国府を効率よく結んでいた。

江戸時代に、五街道を筆頭とする街道整備政策の延長線上に山陽道の整備を置いた。山陽道は西国街道とも呼ばれた。

明治時代になり
、国道に番号を付けて管理する制度をとった。旧山陽道は、明治期には神戸市と長崎市とを結ぶ国道4号の一部に、大正期には三重県と鹿児島県とを結ぶ国道2号の一部に、戦後は大阪市と北九州市とを結ぶ国道2号に引き継がれた。現在の山陽道とは、江戸時代の山陽道に沿った道をさすが、一般的には山陽自動車道の略称として用いられている。


下関はふぐの水揚げ日本一。亀山神社には巨大な「ふく」の像。


    
●赤間神宮(旧阿弥陀寺)

西の基点から国道を少し進むと安徳天皇をまつる赤間神宮
江戸時代までは阿弥陀寺と呼ばれていた。

平家一門の墓・七盛塚入口。墓のそばには、
「七盛の墓包み降る椎の露」高浜虚子の句碑。
赤間神宮は、その昔ここで結婚式を挙げた思い出深いところで、年に1回は来ている。

下関の観光案内にはハングル文字が目立つが、最近は台湾からの観光客をよく見かける。

    
●壇之浦

さらに国道を進むと関門橋が見えて来る。壁紙1024×768
このあたりは源平壇之浦の古戦場。

 
巨大な関門橋をくぐると、御裳裾川の赤い欄干が目にとまる。下からは水音が聞こえている。

壇之浦の合戦が最期のときをむかえて、平清盛の妻・二位尼は、孫の安徳天皇を抱きかかえ、今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 波の下にも みやこありとは」という辞世の歌を詠んで海に飛び込んだ、と伝えられている。

おとずれたとき、御裳裾川公園は改修工事中で雑然としていた。2004年末には、美しい公園が見られることだろう。

    
●長府
壇之浦の先、前田から野久留米街道の辻堂峠を越える。現在は県道前田長府線を進む。
旧山陽道の基点は前田であるという説も有力。
    

長府の町の入口にあるのが功山寺
総門の左手には、高杉晋作挙兵の地であることを示す
回天義挙の碑が立っている。

城下町長府を代表する風景・古江小路。空が広く感じられる。
道路がセメント張りなのがちょっと残念。

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