薩摩街道

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(3)水俣〜阿久根 2012/1/19
K10D
 
●陣の坂
新水俣駅前付近で国道3号線と分かれ、水俣川、湯出川を渡って、江南町の上り坂を行く。ここが陣の坂。
陣の坂には公徳碑があり、説明板にはその由来が次のように書かれている。
徳富家六代の祖・茂十郎貞申が寛政4年(1792)、高山彦九郎を案内して陣の坂を登ったところ大きな岩があり、その上に小さい石が
沢山積まれていた。彦九郎がその由来を聞くと、「これは道端のころび石を通る人が一つ一つ拾ってその岩の上に乗せていくので、
道に小石が一つもなくなり、女子供まで無事に通ることができるようになった」と茂十郎が説明した。彦九郎は非常に感激して「本当に
田舎はいいところだ。人情の厚いことがこれで分かった」ということを「筑紫日記」に書き、茂十郎もこの時のことを「宮市雑記」に書き
のこしている。
今でも、「ころび石を拾って岩に乗せると足が軽くて坂が楽に登られる」と言われており、これが今日、公徳物語として伝えられている。
                                        

陣の坂・上り口付近。


陣の坂・出口付近。少し戻ると公徳碑がある。

 

●侍街道
「侍」という名の集落に入る。侍街道・はぜのき館という案内板に導かれて、はぜのき館に立ち寄った。
かつては蝋の生産が盛んで、街道沿いにははぜの木が多い。
                                   

はぜのき館では蝋の生産に使われた道具などが展示されている。

はぜの木。紅葉の時期に来るときれいだろう。

●肥薩国境
街道は「袋」という集落で国道3号線と合流する。やがて、肥後・薩摩国境の境川に達する。
                                  

境川の手前におとめ塚という標識があり、行ってみると水俣病で亡くなった方々の慰霊碑がたっていた。 
不知火海の水銀汚染を悼む

その右手奥に塚があった。これが乙女塚だろうか。
説明板などがないので分からない。
                               

境橋を渡り、肥後側を振り返る。

境橋は明治18年(1883)の建造。

頼山陽は、
境川のあたりにたたずめば、ここを境に薩摩と肥後は厳然と分かれているが、この小川の水のみはどこの国にも属することなく、
日夜そうそうと意のままに流れている。何と人の社会はうるさいものだ。
という意味の漢詩を残している。
頼山陽は国境を流れるこの川を小川と表しているが、当時、橋はなく飛び石が置かれていたようだ。

●野間之関跡
街道はさらに南下して、米ノ津の集落に入る。
                            

住宅地の中に、1600年ころに設けられた野間之関跡がある。

少し南の加紫久利神社に江戸時代の相撲取り出水川寄進の石灯篭。

●野田郷
国道3号線の東側の旧道を南下する。武家屋敷が残る出水市麓から進路を西に変え、肥薩おれんじ鉄道の南側の道を進む。
やがて野田郷に達する。野田郷駅前を南下し、かつて武家屋敷があった道を進む。大日には石造りの仁王像がある。
                             

武家屋敷の面影を残す門構え。

石垣には、魔よけの石敢当。

●阿久根
街道は南西へ進む。阿久根駅の手前で国道3号線と交差し、国道に沿って南下するとかつての阿久根宿。
中央公園に、この地にゆかりの人の碑と石像がある。
                            

河南源兵衛は中国河南省出身で、明の時代から明治維新まで、島津
藩直属の商人として、中国、琉球などの国々との海運業で活躍した。
代々、河南源兵衛を名乗った。

空順法印は寛文3年(1663)大口市の生まれで、島津藩主吉貴の信望厚い高徳の僧であった。大火が続いていた阿久根に来た法印は断食、水行を行い大火を治めた。この像は元文3年(1738)の建立。

●牛之浜
国道3号線に沿って南下し、牛之浜からは海岸沿いを行く。やがて、川内に入る。


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