1184年2月の一の谷、1185年2月の屋島で敗
れた平家は、彦島の福良(ふくら)へ本拠地を移し、源
氏との戦いに備えた。
寿永4年(1185)3月24日の卯の刻(午前6時頃)
早鞆の瀬戸(関門海峡)のうず潮の中で海戦が始まった。
4千余艘の船が、源氏は白、平家は赤の旗印をなびか
せて入り交じって戦った。
当初平家が優勢と見られたが、四国、九州の平家方の
寝返り、船の漕ぎ手を先に倒すという源義経の巧妙な
戦法によって、その日の午後4時頃には平家の敗北は
決定的となっていた。
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和布刈展望台の壁画。御座船の安徳帝と二位ノ尼。 |
■福浦港(福良の港) Internet彦島/平家物語に見る彦島
島の巡りは三里余もある。
平軍が進駐するまでは、島には、まばらな漁夫小屋に海女の姿が見られるぐらいなものだった。それが数千の
将士にみたされ、館や柵門ができ、また、文字ケ関や豊前の岸との往来も盛んになりだして、たちまち景観も
違ってきた。
島の港、福良には巨大な船が威風を示してい、九州の松浦党、山賀党、その他ここへ糧米や兵を送って加勢を
誓う者も収支絶えない。その陣容とここの士気を目に見るものは、平家が衰運とはどうしても思えなかった。
(新平家物語「彦島とりで」)

福浦港中央部から湾外方向を望む。遠くに皿倉山が見える。 源平時代と同じ地形の荒田港付近。
■串崎海岸
たヾに、艨艟(もうどう)の影は、長門寄りの陸影に添って、海峡の東の入口へかヽってゐた。そして、いはゆ
る”海ノ門(うみのと)”の――壇ノ浦から早鞆(はやとも)の奥を覗きかけた時、いつか、東天は大きな朝の日
輪を打ち出してゐた。
『オヽ』まばゆげに、義經は、振向いた。そして、かたはらの船所五郎に、『あの二ッ島は?』と、島の名を
たづねた。
『一つは満珠島、一つは干珠島と、呼んでをります。里人は、また、奥津(おいつ)とも・…』
『昨夜、忌宮(いみのみや)の神官のもうしたのは、あの島のことか。おもしろい。、片手に満珠、片手に干珠、
二つを双手(もろて)に持った方こそ、こヽの海門(うなど)を制して勝つ者ぞ』
(新平家物語「満珠・干珠」)

【左】串崎海岸から見る満珠・干珠島。このあたりの地形は源平時代と同じ。
【右】火の山から海峡東口を望む。源氏は左手の満珠・干珠島付近、平家は右手の田野浦付近に集結し、中央
付近の海域で、源平壇ノ浦の戦いが始まった。
■御裳裾(みもすそ)川

御裳裾川が勢いよく海峡に流れ込む。 安徳帝御入水之処の碑
『――西の空、彼方の美しさを、御覧ぜられい。西方の浄土とは、かしこ。極楽の浄土とも申しまする。そこ
の久遠(くおん)の命のたのしみは、人の世の都どころではありませぬ。なんぽう、苦患(くげん)も悪業(あく
ごう)も知らぬ目出度き都やら知れませぬ。・…いで、尼が、お道しるべしてまゐらせん。御子(みこ)さま、か
う、尼にお倣(なら)い遊ばせや、おん掌(て)を合はせ、おねんぶつを仰せられませ』
尼のそばには、もう、そこへ誘(いざな)われて、抱へるやうに立たせられたみかどのお姿が、おぼろに見えた。
山鳩色の御衣(ぎょい)に、お髪(ぐし)はみづらに結はせ給ひ、つねの御癇症や、駄々つ子の、み気色もなく、
ふしぎとお素直に、うなづいていらつしやる。そして尼のするとほりに、小さいお掌(て)を合はせらたやうだ
った。とたんに、あツ――と小さい叫びがし、お姿は、尼の體と一しょに、この世と、海づらの間を、さツと
翻(ひるがえ)りつヽ、沈んで行つた。
(新平家物語「波の底にも都の候ふ」)
■赤間宮

定期的に塗り替えられ、いつも色鮮やかな水天門。 |
赤間宮は、安徳天皇をまつる阿弥陀
寺として建てられ、明治時代に赤間
宮と改められた。左手奥には、安徳
天皇御陵、平家一門の墓、耳なし芳
一堂など。
平家一門の墓の前には、高浜虚子の
句碑がある。
七盛の墓包み降る椎の雨
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