海峡散歩(23) 下関市・平家物語を歩く


1184年2月の一の谷、1185年2月の屋島で敗れた平家は、彦島の福良(ふくら)へ本拠地を移し、源氏との戦いに備えた。

寿永4年(1185)3月24日の卯の刻(午前6時頃)早鞆の瀬戸(関門海峡)のうず潮の中で海戦が始まった。4千余艘の船が、源氏は白、平家は赤の旗印をなびかせて入り交じって戦った。

当初平家が優勢と見られたが、四国、九州の平家方の寝返り、船の漕ぎ手を先に倒すという源義経の巧妙な戦法によって、その日の午後4時頃には平家の敗北は決定的となっていた。

            

 
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 和布刈展望台の壁画。
 御座船の安徳帝と二位ノ尼

  ■福浦港(福良の港)

     島の巡りは三里余もある。

     平軍が進駐するまでは、島には、まばらな漁夫小屋に海女の姿が見られるぐらいなものだった。それが数
     千の将士にみたされ、館や柵門ができ、また、文字ケ関や豊前の岸との往来も盛んになりだして、たちま
     ち景観も違ってきた。

     島の港、福良には巨大な船が威風を示してい、九州の松浦党、山賀党、その他ここへ糧米や兵を送って
     加勢を誓う者も収支絶えない。その陣容とここの士気を目に見るものは、平家が衰運とはどうしても思えな
     かった。
 
 (新平家物語「彦島とりで」)

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     福浦港中央部から湾外方向を望む。遠くに皿倉山が見える。 源平時代と同じ地形の荒田港付近。

  ■串崎海岸

    たヾに、艨艟(もうどう)の影は、長門寄りの陸影に添って、海峡の東の入口へかヽってゐた。そして、いはゆ
    る”海ノ門(うみのと)”の――壇ノ浦から早鞆(はやとも)の奥を覗きかけた時、いつか、東天は大きな朝の日
    輪を打ち出してゐた。

    『オヽ』まばゆげに、義經は、振向いた。そして、かたはらの船所五郎に、『あの二ッ島は?』と、島の名を
    たづねた。

    『一つは満珠島、一つは干珠島と、呼んでをります。里人は、また、奥津(おいつ)とも・…』

    『昨夜、忌宮(いみのみや)の神官のもうしたのは、あの島のことか。おもしろい。、片手に満珠、片手に干
    珠、二つを双手(もろて)に持った方こそ、こヽ
の海門(うなど)を制して勝つ者ぞ』   (新平家物語「満珠・干珠」)

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      【左】串崎海岸から見る満珠・干珠島。このあたりの地形は源平時代と同じ。
      【右】火の山から海峡東口を望む。源氏は左手の満珠・干珠島付近、平家は右手の田野浦付近に集結
         し、中央付近の海域で、源平壇ノ浦の戦いが始まった。


  ■御裳裾(みもすそ)川

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     御裳裾川が勢いよく海峡に流れ込む。       安徳帝御入水之処の碑

    『――西の空、彼方の美しさを、御覧ぜられい。西方の浄土とは、かしこ。極楽の浄土とも申しまする。そこ
    の久遠(くおん)の命のたのしみは、人の世の都どころではありませぬ。なんぽう、苦患(くげん)も悪業(あく
    ごう)も知らぬ目出度き都やら知れませぬ。・…いで、尼が、お道しるべしてまゐらせん。御子(みこ)さま、か
    う、尼にお倣(なら)い遊ばせや、おん掌(て)を合はせ、おねんぶつを仰せられませ』

    尼のそばには、もう、そこへ誘(いざな)われて、抱へるやうに立たせられたみかどのお姿が、おぼろに見え
         た。

    山鳩色の御衣(ぎょい)に、お髪(ぐし)はみづらに結はせ給ひ、つねの御癇症や、駄々つ子の、み気色もなく、
    ふしぎとお素直に、うなづいていらつしやる。そして尼のするとほりに、小さいお掌(て)を合はせらたやうだ
    った。とたんに、あツ――と小さい叫びがし、お姿は、尼の體と一しょに、この世と、海づらの間を、さツと
    翻(ひるがえ)りつヽ、沈んで行つた。
   (新平家物語「波の底にも都の候ふ」)

  ■赤間宮

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定期的に塗り替えられ、いつも色鮮やかな水天門。
赤間宮は、安徳天皇をまつる阿弥陀寺として建てられ、明治時代に赤間宮と改められた。左手奥には、安徳天皇御陵、平家一門の墓、耳なし芳一堂など。

平家一門の墓の前には、高浜虚子の句碑がある。

  七盛の墓包み降る椎の雨


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