天野あまの

弘法大師ゆかりの地

参考サイト高天原の地・天野の里

2013/11/12
EOS 5D/24-105 
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白州正子は、『かくれ里』の「丹生都比売(にうつひめ)神社」の中で次のように書いている。

まだかまだかと思ううち、峠を二つばかり越えたところで下り坂となり、いきなり目の前が明るくなった。見渡す限り、まばゆいばかりの稲の波だ。

こんな山の天辺に、田圃があろうとは想像もしなかったが、それはまことに「天野」の名にふさわしい天の一角に開けた広大な野原であった。もしかすると高天原も、こういう地形のところをいったのかも知れない。
 
周囲をあまり高くない、美しい姿の山でかこまれ、その懐に抱かれて天野の村は眠っていた。ずいぶん方々旅をしたが、こんなに閑かでうっとりするような山村を私は知らない。

神社はその広々とした野べの、一番奥まった所に建っており。朱塗りの反橋の向こうに、大きな杉にかこまれて、どっしりとした楼門が見えた時には、「来てよかった」と私たちは異口同音にいった。
 
 


1700年の歴史を持つ丹生都比売神社。室町時代に建てられた楼門は国指定重要文化財、2004年には世界遺産に登録された。


天野は標高450mにある盆地。1700年前の丹生明神や1200年前の空海にまつわる地。「にほんの里100選」にも選ばれている。

高野山へ通じる山道があり、八丁坂と呼んでいるが、峠の天辺には二つの鳥居が立ち、高野山が一望のもとに見渡せる。
高野へ登る人々は、九度山から峠を越えて、まず天野に詣で、ここから八丁坂を越えて行くのが正しい道順であった。
その途中には、「町石」といって、鎌倉時代の石標がたくさん残っており、「二つ鳥居」は、高野山から丹生都比売神社を拝むための、
行者たちの遥拝所であったという。

高野山町石道の六本杉峠から丹生都比売神社を経て、八丁坂を上り、二つ鳥居で町石道に戻るルートは、白州さんが正しい道順
と書いているように、かつてはそうであったのであろう。丹生都比売神社のウェブサイトには次のように書かれている。
丹生都比売大神の御子、高野御子大神は、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、黒と白の犬を連れた狩人に
化身して現れ、高野山へと導きました。弘法大師は、丹生都比売大神よりご神領である高野山を借受け、山上大伽藍に大
神の御社を建て守護神として祀り、真言密教の総本山高野山を開きました。

丹生都比売神社は、弘法大師が高野山を開くきっかけとなった神社で、いわば高野山のルーツなのである。
しかし今の巡礼者は、神社に立ち寄らずに町石道をそのまま直進するのが一般的である。
    

八丁坂の上り口。

八丁坂を上り切った所にある「二つ鳥居」。


「二つ鳥居」付近から見た天野。白州さんは「高野山が一望のもとに見渡せる」と書いているが、方角違いでここから高野山は見えない。
 
天野には昔から多くの人がかくれ住んだ。
一つには高野に近いこともあって、女人禁制の寺へ行けぬため、ここまで辿りついて一生を終えた人もある。西行の妻もその一人...
村の伝承では、西行は諸国を遍歴した後、高野山に住んでいたが、妻と娘が尼になって、天野に移り住んだ
と聞き、いつしか山を下りて、晩年はこの草堂で暮らした。
    

西行の妻と娘の供養のため建てられた宝篋印塔。
鎌倉時代のもので、和歌山県指定文化財。

西行の妻娘宝篋印塔の近くにある西行堂。昭和61年(1986)再建。
西行堂の下にも、妻娘の墓がある。

近くには横笛の墓もあった。村の人々は、「横笛の恋塚」と名づけて、滝口入道を慕ってはるばるここまで辿りつき、
高野を眺めつつ死んで行った、悲恋の主人公を偲んでいる。


やおや君 死すれば登る 高野山 恋も菩提の 種とこそなれ