万葉の旅

泊瀬はつせ

10/3/22,23
PENTAX K-7/17-70
                                          
もりくの 泊瀬の山 青旗の 忍坂おさかの山は  走出はしりでの よろしき山の
出立の くはしき山ぞ あたらしき 山の荒れまく惜しも
巻13−3331 
初瀬の山、忍坂の山は、裾の引きかたの好もしい山、たたずまいの見事な山だ。
この山の荒れていくのが惜しいものだ。


海石榴市から東へ初瀬川(泊瀬川)沿いを進むと長谷寺がある初瀬に至る。
初瀬川は大和川とも呼ばれているが、当時は泊瀬川と書き、三輪山麓では三輪川と呼ばれていた。
初瀬にむかって上り坂で、初瀬川をはさんで、北に国道165号線、南側に近鉄大坂線が走っている。
万葉の時代、ここは埋葬の地であったようだ。
                        

桜井市海石榴市の初瀬川堤にある巻13−3331の歌碑。右の巻10−
2222も海石榴市の初瀬川堤にあり、仏教伝来之地碑と並んでいる。


夕さらず かはづ鳴くなる 三輪川の
清き瀬の音を 聞かくしよしも
 巻10−2222
夕方になるとカジカが鳴く三輪川の清らかな瀬音を聞くのは
心地よい。

                    
土形娘子ひじかたのおとめを泊瀬の山に火葬せる時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌
こもりくの 泊瀬の山の 山の際に
いさよふ雲は 妹にかもあらむ
 柿本人麻呂  巻3−428
泊瀬の山際に漂う雲は妻なのかもしれない。

詩人・堀口大学の揮毫。
朝倉小学校の東側入口に付近の路傍に無造作に置かれている。
               

泊瀬の朝倉の宮に天の下知らしめす天皇の代 大泊瀬稚武天皇 天皇の御製歌
もよ み籠持ち 堀串ふくしもよ み堀串ぶくし持ち この岡に 菜摘ます子 家告らせ 名告らさね 
そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ居れ 告らめ 家をも名をも
雄略天皇 巻1−1
籠もよい籠を持ち、掘り串もよい掘り串を持って、この丘で菜を摘む娘よ。
あなたの家を教えておくれ、あなたの名前を教えておくれ。
この大和の国は私が従えているのだ。私がすっかり支配しているのだ。私は告げよう、家も名も。
万葉集の巻頭を飾るこの歌は、もともと求婚のための民謡歌であったが、古代を代表する天皇である雄略天皇の物語と重なり、
いつしか、雄略天皇の作とされるようになったという。

                                  



雄略天皇の泊瀬朝倉宮の候補地の一つである桜井市黒崎の白山神社には、「萬葉集發燿讃仰碑」と歌碑がある。
                     
石走いはばしり たぎち流るる 泊瀬川
絶ゆることなく またも来て見む

紀朝臣鹿人きのあそみかひと 巻6−991 
岩の上を走って激しく流れる白瀬川よ、
途絶えることがないように、また幾度も来て見るから。


この歌碑は桜井東中学校の校門内にある。
                 

こもりくの 泊瀬の山に 照る月は 満ち欠けしけり 人の常なき
巻7−1270
泊瀬の山に照る月は満ち欠けするものなのだなぁ。人のはかなさよ。
この歌碑は長谷寺山門前にある。

こもりくの 泊瀬の山は 色づきぬ しぐれの雨は 降りにけらしも
大伴坂上郎女 巻8−1593 
泊瀬の山は色付き始めた。しぐれの雨が降ったからであろう。
この歌碑は長谷寺納経堂前にある。犬養孝先生の揮毫。
                      
初瀬川は、長谷寺の手前で吉隠(よなばり)川という細流に分岐する。国道165号を東へ進むと、吉隠という集落がある。
万葉集に読まれた地名は今もしっかりと残っていて、吉隠公民館前には万葉歌碑がたっている。
但馬皇女の薨ほうぜし後に、穂積皇子、冬の日に雪の降るに御墓を遥望し悲傷流涕して作らす歌一首
降る雪は あはにな降りそ 吉隠
よなばりの 猪養いかひの岡の 寒くあらまくに
穂積皇子 巻2−203
降る雪よ、そんなに沢山降らないでおくれ。吉隠の猪養の岡も寒いだろうから。