万葉の旅

石田野いわたの

2015/5/14-15
PENTAX K-7

壱岐の島に至りて、雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)のたちまちに鬼病に遭ひて死去にし時に作る歌一首 并せて短歌
天皇の 遠の朝廷と 韓国に 渡る我が背は 家人の 斎ひ待たねか 正身かも 過ちしけむ 秋さらば 帰りまさむと
たらちねの 母に申して 時も過ぎ 月も経ぬれば 今日か来む 明日かも来むと 家人は 待ち恋ふらむに 遠の国
いまだも着かず 大和をも 遠く離りて 岩が根の 荒き島根に 宿りする君  
巻15−3688

反歌二首
石田野に 宿りする君 家人の いづらと我れを 問はばいかに言はむ  巻15−3689
世間は 常かくのみと 別れぬる 君にやもとな 我が恋ひ行かむ  巻15−3670

天平八年(738)、大阪を発った遣新羅使人の船は壱岐の印通寺港に着いたが、雪連宅満はこの地で亡くなった。
雪連宅満の墓が遣新羅使人の墓として印通寺港の北西、石田の集落にある。
途中までは案内標識があるが、墓の近くに標識がなくうろうろしていると、近くの家人が案内してくださった。
小さな墳土の上に石塔がたてられた粗末なものだった


万葉「石田野」の石碑の右手に遣新羅使人の墓がある。


新羅使・雪連宅満の墓。

石田野の歌碑は印通寺港北方の万葉公園にある。

石田野に 宿りする君
家人の いづらと我れを 問はばいかに言はむ
巻15−3689

石田野に眠り場としているあなた、都に戻ってから家の人があの人はどこにいるのかと聞かれたら、何と答えたらいいだろう。

司馬遼太郎はその著書「街道をゆく、壱岐・対馬の旅」の中で、新羅使の目的はよく分からず、政治的にはなんの貢献もしなかったが、旅の途中でたくさんの歌を詠んで「万葉集」にのこしたことが、文学史上に大きく貢献した。
という趣旨のことを書いている。

    

石田野がどのあたりかといえば、雪連宅満の墓がある付近だろうが、石田町には原の辻(はるのつじ)遺跡付近に広い野がある。
魏志倭人伝に登場する一支国(いきこく)の王都があった場所と考えられている。魏志倭人伝には次のように書かれている。

又南に一海を渡ること千余里、名を瀚海(かんかい)と日う。一支國(原文は一大國)に至る。
官は亦卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。方三百里ばかり。竹木そう林多く、三千ばかりの家有り。
やや田地有り、田を耕せどなお食足らず、亦南北に市てきす。


この時代の1里は約80mとされているので、方三百里は24km四方ということになり、壱岐の島より大きくなる。
おとずれたとき、原の辻は麦の秋をむかえていた。



壱岐にはもうひとつ万葉歌碑が、勝本町湯本の現在閉鎖されている「サンドーム壱岐」前にある。上品なたたずまいの歌碑である。

壱岐目村氏彼方(おちかた)
春柳 かづらに折りし 梅の花
誰れか浮かべし 酒坏の上に
  巻5−840
枝垂れ柳をかづらにして梅の花に巻いて誰が浮かべたのだろう、杯の上に。

天平2年(730)正月、壱岐の役人が大伴旅人の梅花の宴に招かれた時に詠んだものとされている。
この梅花の宴では32首の歌が残されている。






 
  


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