万葉の旅

鴨山

07.7.10/07.8.6-7
*istDS2


高津柿本神社の人麻呂像。ここでは「人麿」と書かれている。右は本殿、後方は宝物殿。神社の裏手には広大な万葉公園がある。
人麻呂生誕の地とされる戸田へたと終焉の地とされる高津に神社がある。

かつて高津の沖合いに鴨島という島があったが大地震により陥没した。
人麻呂は鴨山(鴨島の山)で亡くなったとされているが、他にも鴨山とされ
る地が数ヶ所あるため確定的なものではない。

石見 みを 浦なしと 人こそ見らめ かたなしと
人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも
 よしゑやし
はなくとも 鯨魚
いさなり 海辺うみへを指して 和田津にきたづ
荒磯
ありそに かふる 玉藻沖つ藻 朝羽振
風こそ寄らめ 羽振る 波こそ寄れ 波の
むた
か寄りかく寄る 玉藻なす
 寄り寝し妹を 露霜
置きてしれば この道の 八十
やそくまごとに よろづたび
かへり見すれど
 いやに 里は
さかりぬ いや
山も越え来ぬ 夏草の 思ひ
しなえて ふらむ
妹が
かど見む なびけこの山

巻2−131
         


喜阿弥町の国道191号線沿い「ふれあい広場」の歌碑。
●戸田柿本神社

本殿。むこうに、実の形が筆の先端に似ているという筆柿。

綾部家にある生誕地の碑。鳥居のむこうに遺髪塚がある。

●高津柿本神社

楼門とサルスベリの花。

梅原猛氏の鴨島遠望地の碑

万葉公園人麿展望広場の歌碑群。後方は大道山。

鴨島跡から引き上げられた岩(説明板の前)と歌碑。
柿本朝臣人麻呂、石見の国に在りて死に臨む時に、自らみて作る歌一
鴨山の 岩根ける 我れをかも
知らにと妹が 待ちつつあるらむ
  巻2−223
鴨山の岩根を枕にふせっている私のことを
妻は知らないで、私の帰りを待っているのであろうか。


万葉公園人麿展望広場の「鴨山」の歌碑。

鴨山を鴨島とする梅原猛氏は、昭和48年(1973)、人麻呂水刑死説を発表した。昭和52年(1977)には、鴨島跡の海底調査を行い、階段の石ではないかという岩を引き上げた。人麻呂終焉の地「鴨山」は、浜田市亀山説、美郷町湯抱ゆがかえ説、江津市恵良説などがあり、斉藤茂吉は湯抱の鴨山を終焉の地としている。


のや 高角山の より 我が振る袖を 見つらむか
  巻2−132で江津市の高角山での歌とされているが、
  そっくりな歌がほかにある。
 石見の海 打歌うったの山の 木の間より
 我が振る袖を 妹見つらむか
 巻2−139
 打歌の山は益田市の大道山とされている。

●鴨島
久城町の海岸、久城が浜センターの門前に、鴨島跡展望地の碑があり、高津松崎の金毘羅神社に鴨島の由緒碑がある。

このあたりの沖合いに鴨島があったとされている。

文化8年(1811)建立の
高津松崎の碑(碑文)
石見の国高津の沖に鴨島となんいひて大なる島山あり。神亀元年甲子三月十八日柿本のおほん神かむさりませし所にて御辞世のやまと歌、萬葉集、拾遺集にのせられたり。此所に御廟尊像は自らつくらせ給うとなん寺をば人丸寺と名づく。都より北海に渡海の船、此地によせ来り、賑わしくさかんなりし地なりしに、後一条院の御宇、萬寿三年西寅の五月、高波のため彼の島をゆりこぼたれ、宮寺を初め民屋残りなく海中に没しぬ。しかありしに、彼鴨島のおほん社の前に二枝にわかれたる松あり、此松の枝、尊像を帯て高角浜によせ来りぬ。此処を松佐起社と名づく。人々信感に堪えず、其処に社と寺を造り尊像をもすえ奉りしに、延宝九年に今の高角山に社地をうつし奉りしまで、年凡そ六百有余年此松崎にて祭事をいとなみ奉るとなん。

この松崎に二枝の松の古木ありて御腰掛の松ととなえ来りぬ。しかあるに、大方古木となりし故に、植かゆることたびたびなれども、もとより西北の大海の辺にて風のかくる砂に吹きまくられ、または枯れることあまたたびするがゆゑに、彼の松のかたはらに石を立てて古跡のしるしとして後世につたへつぎつぎうゑそへんとす。(中略)

神さそふこきなかれと守るらし里のおきなのたてし石ふみ
化八年辛未三月十八日  正二位前中納言 藤原持豊

 
 金毘羅神社の高津松崎の碑。
 ここに、国指定の「高津連理のマツ」があったが、
 枯れたため、平成15年(2003)に伐採された。


伎波都久
きはつくの 丘の茎韮くくみら われ摘めど
籠にも満たなふ 背など摘まさね
作者不詳 巻14‐3444
伎波都久の丘に生えているニラを私は摘んでいるけれど、
なかなか籠にいっぱいにならないわ。
あなたもいっしょに摘んでくださいよ。


益田市鎌手公民館にある歌碑。
万葉の時代、鎌手付近の山は伎波都久の岡と呼ばれていた。
伎波都久は常陸国真壁郡の地名で東歌とする説もある。




益田市石見萩空港の歌碑。