万葉の旅

美禰良久

07.10.18
*istDS2

奈良時代、対馬に常駐する約2000人の防人の食糧を運ぶため、志賀島の白水郎あま(海人)である荒雄がその任に当たることになった。荒雄は船員約70名と共に、五島列島福江島の美弥良久の港より対馬へ向かって出港したが、台風によって船が沈没し全員死亡してしまった。

の 
つかはさなくに さかしらに 行きし荒雄あらをら 沖に振る
巻16−3860

天皇の命により派遣された訳ではないのに、自分の意思で勝手に出かけて行った荒雄たちは沖の方で袖を振っている。
荒雄は太宰府政庁の命により対馬への食糧輸送を行ったと思われるので、勝手に出かけて行ったというのは解せないし、志賀島から直接対馬へ行かず、五島列島経由で行こうとしたのか疑問である。


白良ヶ浜公園にある万葉学者犬養孝先生揮毫の「荒雄」の歌碑。
 
 白良ヶ浜公園入口付近にある「万葉の里」の碑。
 

歌碑はないが、鴨丸という船で出帆する荒雄を詠った山上憶良の歌がある。

沖行くや 赤ら小舟に つと遣らば けだし人見て
開き見むかも

巻16−3868

沖を行く赤く塗った小舟に贈り物を託したら、荒雄がそれを見て、開いて見るかもしれない。


  荒雄も遣唐使も、姫島と千々見ノ鼻や高崎鼻の間を通って外海へ出た。
   
 高崎鼻。後方は姫島。
←千々見ノ鼻。今は使われていないカンコロ小屋のむこうに姫島。
                                           
遣唐使船の航路としては、北路、南島路、南路の3種類があったとされている。
北路は、遣唐使前半期に用いられたが、那の津(博多)から、壱岐、対馬を経て、朝鮮半島の西岸沿いを北上、黄海を横断して
山東半島に上陸するもので、このルートが最も安全と考えられていた。

しかし、663年の白村江の戦い後、日本との関係が悪化し、北路を用いることができず、遣唐使の派遣もしばらく途絶えた。

次に用いられたのが南島路で、那の津から九州西岸を南下し、屋久、奄美、沖縄、石垣などの島々を経て、東シナ海を横断し揚子江河口を目指すものでだった。北路とほぼ同じ航海期間だったが、外洋を渡ることから遭難率が上がる結果となった。

最後に用いられたのが南路で、那の津から、相子田の停(中通島青方)、川原浦(福江島岐宿川原)などで風待ちしながら、美弥良久の崎(福江島三井楽柏崎)から東シナ海を横断するもので、航海期間を大幅に短縮できるが、最も危険なコースだった。つまり、美弥良久は遣唐使の日本における最終寄港地だった。

旅人の 宿りせむ野に 霜降らば 我が子ぐくめ
あめ鶴群たづむら 巻9−1791
空高く飛ぶ鶴たちよ、霜降る野に眠るわが子を見たら、その羽
でつつんで温めておくれ。

天平5年(733)、第9次遣唐使船が出港するときに、わが子の無事
を祈って母親が詠んだものである。
  
  中通島青方の遣唐使遺跡「御船様」。14次の遣唐使船団が嵐
  に遭い、第3船のみが無事に帰還したとき、その幸運を喜び、
  船形の自然石をまつったものとされている。


柏崎公園の「旅人の」の万葉歌碑。


 白良ヶ浜公園にある遣唐使船を模した遊具。


遣唐使が寄港した川原浦入口の魚津ヶ崎にたつ「遣唐使船寄泊地」の碑。


空海は、804年、第16次遣唐船で唐に渡った。
柏崎公園には、辞本涯じほんがい(日本のさいはての地よ、さようなら)という空海の言葉の碑がたっている。
                             
藤原道綱の母の「蜻蛉日記」には、そこへ行けば亡くなった人に会えるところ、ということで「みみらく」が歌に詠まれている。
                              
いずことか 音にのみきく みみらくの
島がくれにし 人をたずねむ


高崎鼻公園の「いずことか」の歌碑。
ありとだに よそにてもみむ 名にしおはば
われに聞かせよ みみらくの島


白良ヶ浜公園の「ありとだに」の歌碑。