桜紀行

桜と日本文学

 ● 三好達治『甃のうえ

   あはれ花びらながれ
   をみなごに花びらながれ
   をみなごしめやかに語らひあゆみ
   うららかの跫音あしおと空にながれ
   をりふしに瞳をあげて
   翳かげりなきみ寺の春をすぎゆくなり
   み寺の甍みどりにうるほひ
   廁々ひさしひさしに
   風鐸のすがたしづかなれば
 
  ひとりなる
   わが身の影をあゆまする甃いしのうえ


 ●
梶井基次郎『桜の樹の下には』


    桜の樹の下には屍体が埋まってゐる!

    これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられ
   ないことぢやないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしい
   ま、やつとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる。これは信じていいことだ。


 ● 坂口安吾『桜の森の満開の下』

    そこは桜の森のちょうどまんなかのあたりでした。四方の涯は花にかくれて奥が見えません
   でした。日頃のような恐れや不安は消えていました。花の涯から吹きよせる冷たい風もありま
   せん。ただひっそりと、そしてひそひそと、花びらが散りつづけているばかりでした。


 ●
水上勉『桜守』

    桜は弥吉の手で抱えきれないほど太く、横縞の肌はみなすべすべしていた。どの木もあかみ
   をおびた新緑が出て、花はその新緑のつけ根のあたりに付き、細枝がたわむほど重なっている。
   桃色のもあり、純白にちかい空の透けてみえるようなうすいのもあった。どの木も同じ花の木
   ではなかった。


 ● 宇野千代『薄墨の桜』

    私が薄墨の桜を観に行きたいと思ったのは、さして風流な気持ちがあったからではありませ
   ん。しかし、或る人から、その桜のことを聞いた当座は、闇雲に行ってみたいと思ったもので
   した。


 ● 渡辺淳一『桜の木の下で』

    一瞬、菊乃の顔が桜に近づき、白い喉が花明かりのなかに浮き上がった。

    桜の枝を折るのが禁じられていることくらい、菊乃は知っているはずである。

    だが注意するまもなく、菊乃は一本の小枝を折ると、宙にかざした。

    「くすっ……」と笑ったようだが、声は春の夜に吸いこまれ、ほのかな笑顔だけが月明かり
     のなかに残った。

    遊佐はそれを見ながら、菊乃が桜の下で、狂女になったような気がして身が竦(すく)んだ。


 ● 和歌・短歌

    世の中にたえてさくらのなかりせば 春の心はのどけからまし       在原業平

    ひさかたの光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ         紀友則

    花の色はうつりにけりないたづらに 我が身世にふるながめせしまに    小野小町

    いにしへの奈良のみやこの八重桜 今日九重ににほいぬるかな       伊勢大輔

    吹く風をなこその関と思へども 道もせに散る山桜かな          源義家

    敷島の大和心を人問はば 朝日に匂う山桜花               本居宣長

    清水へ祇園をよぎる桜月夜 こよひ逢ふ人みなうつくしき         与謝野晶子