山頭火と歩く

関門海峡


 ■昭和5年11月22日 晴曇定めなし。時々雨。

下関は好きだけれど、煤烟と騒音とには閉口する。狭くるしい街を人
が通る、自動車が通る、荷馬車が通る、オートバイが通る、自転車が
通る、……その間を縫うて、あちこちと行乞するのはほんたうに嫌に
なります。
生きてゐることのうれしさとくるしさを毎日感じる。同時に人間とい
ふもののよさとわるさを感ぜずにはゐられない、……それがルンペン
生活の特権とでもいはうか、それはそれとして明日は句会だ、どうか
お天気であってほしい。好悪愛憎、我他彼此のない気分になりたい。

 山頭火は「一流街行乞」と書いている。日記の表現から浮かぶのは、
 下関駅付近と唐戸交差点付近の雑踏である。
 同日の日記から3句。

     
お経とどかないヂャズの騒音
     風の中声はりあげて南無観世音
     ならんで尿する空が暗い

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下関の船着場にあった大正12年建造の旧山陽ホテル。山頭火も見ただろう。



 ■昭和5年11月23日 時雨。

  相変らずの天候である。朝の関門海峡を渡る、時雨に濡れて近代風景を鑑賞する、舳の突端に立って法衣を寒風に
  任した次第である。多少のモダン味がないこともあるまい。

  関門海峡を点綴するには朝鮮服の朝鮮人の悠然たる姿を添えなければならない、西洋人のすっきりした姿乃至どっ
  しりした姿も……そして下関駅頭の屋台店(飲食店に限る)門司海岸の果実売子を忘れてはならない。

  下関から眺めた門司の山々はよかったが、近づいて見て、登って観て、一層よかった、門司には過ぎたものだ。

    山頭火が放浪していた頃、関門トンネルは開通していなかった。九州の行き帰りには、幾度も船で関門海
    峡を渡ったであろう。当時の門司港は、現在よりも多くの洋風建築があり、山頭火はそれを近代風景と表
    現した。門司海岸の果実売子の果実とは、バナナのことではないだろうか。


    
この日、山頭火は、句会のため、門司広石町の「層雲」支部「早鞆会」を率いる久保源三郎をたずねてい
    る。句会は都合が付かない人が多く、出席者は山頭火と源三郎だけ。主客二人だけでは句会にならない、
    と句会をやめて山に登ったという、おそらく風師山だろう。それでも、日記には20句ほど書かれている。
    その中から3句。


        夢がやぶれたトタンうつ雨
        しぐるる街のみんなあたたかう着てゐる
        水飲んで尿して去る


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   壇之浦から見た門司の山々。        大正3年建造の門司港駅。
   山頭火は下関の船着場から見たのであろう。 山頭火が見た当時は庇が付いていなかった。