山頭火と歩く

長崎


 ■昭和7年2月3日 勿体ないお天気、歩けば汗ばむほどのあたたかさ
      2月4日 曇、雨、長崎見物

長崎はよい。おちついた色彩がある。汽笛の響きまで
も古典的な、同時に近代的なものがひそんでゐるやう
に感じる。

このあたり――大浦といふところにも長崎的特殊性が
漂うてゐる、眺望に於て、家並に於て、――石段にも、
駄菓子屋にも。

あたたかい友に案内されて、長崎のよいところばかり
を味はせていたたいてをります。今日は唐寺を巡拝し
て、そしてまた天主堂に礼拝しました。

あすは山へ海へ、等々私には過ぎたモテナシでありま
す、ブルプロを越えた生活とでもいひませうか、――。

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雨の崇福寺。
95年7月2日、親しい友との長崎への旅だった。
2年後、友は帰らぬ人となった。

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大浦天主堂のマリア像のむこうに
長崎の町が見える。

冬雲の大釜の罅(ひび)      崇福寺
冬雨の石階をのぼるサンタマリア
 大浦天主堂


山頭火は長崎市内に4日間滞在し、句会を開いたりあちこちを見物したりで、楽しいときをすごしている。そのときのことを、「ブルプロ」と表現している。ブルとはブルジョアの意味であろうが、プロとはプロレタリアだとすれば、ちょっと意味不明の言葉である。

 ■昭和7年2月5日  晴、少しばかり寒くなった、朝酒をひっかけて出かける。
      2月6日  陰暦元旦、春が近いといふよりも春が来たやうなお天気である。

きょうは二人で山へ登ろうといふのである、ノンキ
な事だ、ゼイタクな事だ、十返花君は水筒二つを(
一つは酒、一つは茶)私は握飯の包を掲げてゐる。
瓢岩へ、そして帰途は金毘羅山を越えて浦上の天主
堂へ。

 大樟のそのやどり木の赤い実
 懺悔台の顔見せむ赤いカーテン

山頭火が登った金毘羅山は、浦上の東南方に立つ標
高366mの山である。

山頭火は、6日に諏訪神社の隣にある諏訪公園をた
ずねているが、5日に詠まれた「大樟の」句碑が、
諏訪神社の大クスの近くにある。



山頭火がたずねた浦上聖堂は昭和20年の原爆で
倒壊した。現在の聖堂前に立つ2体の聖像は、原
爆の熱線を受けて焦げている。

諏訪神社の「大樟の」句碑。


諏訪神社の大クス(樹齢600〜700年)

 ■昭和7年2月7日 晴、肥ノ岬(脇岬)発動船、徒歩……

第二十六番の札所の観音寺へ拝登、堂塔は悪くな
いが、情景はよろしくない、自然はうつくしいが
人間は醜いのだ。

 
岩ならんでおべんたうののこりをひろげる

九州西国観音霊場の第26番札所観音寺は、長崎
市内から南へ下った野母崎町脇岬にある。今は市
内からバスで1時間ほどであるが、山頭火は船で
行ったようだ。

わたしがここをたずねたのは、1798年に建造
された石造のアーチ門を見たかったからである。
山頭火は、「情景はよろしくない」と書いている
が、なかなか風情のあるお寺だったと記憶してい
る。「人間は醜い」と書いているので、何かいや
なことでもあったのではないだろうか。
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九州西国観音霊場・円通山観音寺。
石門越しに見る山門。

 ■昭和7年2月13日

円通寺再興といふ岩戸山巌吼庵に詣でる、
ナマクサ、ナマクサ、ナマクサマンダー
……。

歩ゐているうちにもう口ノ津だ、口ノ津
は昔風の港町らしく、ちんまりとまとま
ってゐる。

いちにち風に吹かれて湯のわくところ

島原半島西岸を下ってきた山頭火がおと
ずれた巌吼庵は、加津佐町の巌吼寺であ
るが、山頭火はなぜナマクサと言ったの
だろうか。

口之津には当時をしのぶものはほとんど
見当たらないが、旧長崎税関口之津支所
の建物が保存されていた。
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明治32年建造の旧長崎税関、今は口之津歴史民俗資料館。