小国〜越後金丸 05/11/3 *istD/16-45(24)  このあたりは赤沢峡、横根トンネル西口の向大沢橋から撮影。
 
今回撮影に同行してくれたA君によれば、作家の宮脇俊三さんが旅の途中で終戦の玉音放送を聴いたのが米坂線で、その記念碑があるという。その駅は小国ではないかというので立ち寄ってみたが、小国駅ではなかった。のちに分かったのであるが、それは今泉駅だった。

宮脇さんの「時刻表昭和史」に、そのことが書かれている。宮脇さんは父親と一緒に11時30分今泉駅着の列車を降りて、駅前広場で玉音放送を聴いたという。

そのときの印象を、「時は止まっていたが汽車は走っていた」と書いている。当時、宮脇さんは高校生だった。
 

 
宮脇俊三著「時刻表昭和史」第13章米坂線109列車より抜粋

 今泉駅前の広場は真夏の太陽が照り返してまぶしかった。中央には机が置かれ、その上にはラジオがのっていて、長いコードが駅舎から伸びていた。

 正午が近づくと、人びとが黙々と集まってきて、ラジオを半円形に囲んだ。父がまた、「いいか、どんな放送であっても黙っているのだぞ」と耳もとでささやき、私の腕をぐっと握った。

 この日も朝から艦載機が来襲していた。ラジオからは絶えず軍管区情報が流れた。一一時五五分を過ぎても「敵機は鹿島灘上空にあり」といった放送がつづくので、はたして本当に正午から天皇の放送があるのだろうかと私は思った。

 けれども、正午直前になると、「しばらく軍管区情報を中断します」との放送があり、つづいて時報が鳴った。私たちは姿勢を正し、頭を垂れた。

 固唾を呑んでいると、雑音のなかから「君が代」が流れてきた。こののんびりした曲が一段と間延びして聞え、まだるこしかった。

 天皇の放送がはじまった。雑音がひどいうえにレコードの針の音がザアザアしていて、聞きとりにくかった。生まの放送かと思っていた私は意外の感を受けた。しかも、ふつうの話し言葉ではなく、宣戦の詔勅とおなじ文語文を独特の抑揚で読み出したのも意外だった。

 聞きとりにくく、難解であった。けれども「敵は残虐なる爆弾を使用して」とか「忍び難きを忍び」という生きた言葉は生ま生ましく伝わってきた。「万世の為に太平を拓かんと欲す」という言葉も、よくわからないながら滲透してくるものがあった。

 放送が終っても、人びとは黙ったまま棒のように立っていた。ラジオの前を離れてよいかどうか迷っているようでもあった。目まいがするような真夏の蝉しぐれの正午であった。

 時は止っていたが汽車は走っていた。

 まもなく女子の改札係が坂町行が来ると告げた。父と私は今泉駅のホームに立って、米沢発坂町行の米坂線の列車が入って来るのを待った。こんなときでも汽車が走るのか、私は信じられない思いがしていた。

 けれども、坂町行109列車は入ってきた。

 いつもと同じ蒸気機関車が、動輪の間からホームに蒸気を吹きつけながら、何事もなかったのように進入してきた。機関士も助士も、たしかに乗っていて、いつものように助役からタブレットの輪を受けとっていた。機関士たちは天皇の放送を聞かなかったのだろうか、あの放送は全国民が聞かねばならなかったはずだが、と私は思った。

 昭和二〇年八月一五日正午という、予告された歴史的時刻を無視して、日本の汽車は時刻表通りに走っていたのである。

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