司馬遼太郎の風景
阿波紀行 大鳴門橋、霊山寺、脇町、吉野川、かづら橋 |
1988年2月23日、大阪府南部の深日(ふけ)港からフェリーで淡路島の洲本港へ渡り、鳴門か
ら吉野川北岸沿いに西へ、祖谷(いや)のかづら橋で紀行は終わっている。
紀行の書き出しは、こうである。
阿波(徳島県)へゆくことにした。
その途中、鳴門の海を見たい。私は音にきく鳴門の渦潮というのを知らないのである。
阿波にわたれば、阿波一国を、東西一文字に流れている吉野川を見、その下流の大き
な野を見たい。さらにさかのぼって、野がせばまって”迫(さこ)”になってゆく姿も
見たいのである。
吉野川をさかのぼりつめれば、山岳地帯になる。秘境などといわれる祖谷の山々をほ
んのすこし見、ふたたび吉野川の中流にもどり、さらに下流へくだって、徳島市に出
るという旅をしてみたい。
『街道をゆく』は、基本的には旅の順序にしたがって記述されているが、複数の期間にまたがって
取材した場合や地図上の流れに逆らわないようにという配慮から、旅の順序にしたがっていないこ
とがる。
この『阿波紀行』でも、実際には、徳島市で旅を終えているが、地図上の東から西へ紀行が展開さ
れている。

大潮のころ、渦は一段と大きくなる。99/1/31
PentaxMZ3/17-28mm
淡路島をすぎ、大鳴門橋に入った。やがて右手に大きな渦が、ゆるやかな独楽のように舞っているのをみた。
「ちょうど、いい時間帯ですな」運転手さんがいった。潮の干満は六時間ごとにおこる。いまは夕方の汐(しお)だそうである。
車から降りて歩いた。直径一○メートルほどの渦が、下流にむかってゆるゆると流れてゆき、泡のように消える。また上流に出る。
渦の上を歩いていると、気球の上から下をみているような感覚がある。
私どもはこの旅で、札所といえば、第一番の霊山寺に詣ったきりである。
おなじ寺でも、札所の寺は、ちょっとちがう。奈良や京都の古寺なら、なるべく境内に小さな建造物をたてることをひかえ、創建当時の閑寂な空間を保とうと努めている。
これに対し”お四国”の札所の寺は、お遍路さんの信心の脂(あぶら)でぬれているように思われる。
四国八十八ヶ所第1番札所霊山寺。99/7/31
PentaxMZ3/43mm
この脇町なら、ヨーロッパの古い町にくらべても、構造物の厚みや界隈としての造形性においてひけをとらないのではないか。
どの民家も、古さが孤立しておらず、中町も南町も他の小路も、面として保存されている。それによく補修されてもいる。
もう一つ感心するのは、それら古い町並みがあたらしい図書館、中学校、あるいは民間のスーパー・ストアといった新築の建築とよく調和し、全体として都市造形をかたちづくっていることである。
司馬さんは、脇町がよほど気に入ったらしく、ここの町並みをべたほめしている。
関連ページ 脇町/南町
夕暮れの脇町にて。98/11/9 PentaxMZ3/43mm
祖谷と池田とのあいだに徒歩旅行が可能になったのは、大正九年(一九二○)祖谷川ぞいに祖谷街道が開通してからだといわれるから、そのころやっと祖谷が下界に接したといえる。
鉄道はずっと遅れ、昭和九年、吉野川ぞいに国鉄土讃線が開通してからである。このとき、祖谷一帯のための駅として「赤野駅」(現・大歩危駅)ができた。文明開化が昭和になってやってきたといっていい。
司馬さんは、池田から国道32号線を吉野川ぞいに南下し、大歩危から、有料の”祖谷渓道路”へ入った。
JR土讃線大歩危駅付近の景勝をゆく。98/11/9
PentaxMZ3/43mm
西祖谷山村の善徳という名(みょう)に入ると、渓流にかづら橋という吊橋がかかってい
た。
材料の葛は、標高六○○メートル以上の高地に自生する白口葛(しろくちかづら)という植物のつるで、いかにも頑丈そうである。
明治四十四年の調査では、東西の祖谷山村に八か所もこういう橋があったというが、いまはみな近代的な橋にかわり、この善徳の吊橋だけが残された。
というより、この場所にもべつの橋梁があってふつうそこを往来しているのだが、ごく最近、観光用として架けかえられた。
祖谷は、屋島の合戦に破れた平家の落人たちが、吉野川をさかのぼり、住みついた所と伝えられている。
司馬さんも、そのロマンに誘われて祖谷をたずねたようだ。
祖谷の蔓橋ゃ 蜘蛛のゆのごとく
風も吹かんのに ゆらゆらと
(祖谷の粉ひき唄)
祖谷のかづら橋。98/11/8 PentaxMZ3/43mm
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