司馬遼太郎の風景 豊後・日田街道 日出(ひじ)町、湯布院町、長者原、日田市咸宜園(かんぎえん)、
小石原村

    1975年8月3日、大阪空港から大分空港へ降り立った司馬遼太郎さんは、日出、湯布院、日田
    へ、8月6日まで4日間の旅をしている。その書き出しは、こうだった。

    飛行機が国東半島に近づきはじめると、海の碧さが濃くなってくる。

    「よく晴れています」
    物の形に敏感な須田さんが、飛行機が瀬戸内海の上空をゆく間じゅう
    窓ガラスから額を離さなかった。
    眼下の海浜や岬や島の形象がおもしろいという。

    この日は、瀬戸内海の山陽側と四国側の両側が見えて、真ン中に、ナ
    イル川のように瀬戸内海が流れていた。

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      【左】日出の商店街 【右】武家屋敷跡らしい廃墟に咲く百日紅(99/8/22)

      日出の町は小さいながら城下町だっただけに、古格なにおいがある。

       商店街通りに出ると、重厚な白壁に本瓦ぶきの商家の建物が、軒なみといっていいほど残
      いた。それらは、ふつう土蔵造りといわれる防火性のつよい建物だが、しかしこの町のそれ
      は、土蔵造りというよりも城の白亜の櫓を思わせるような建物なのである。

       その堂々たる櫓建築の軒さきに、「メガネの何々屋」といった看板や、「カレーライスと
      コーヒー・渚」とか、「大売出し抽選場」といった看板ができている。

       古びてはいるが、店舗街としては尋常ならざる威容といっていい。

          司馬さんが日出を訪れたのは1975年、わたしが訪ねたのは1999年、
          25年近くも隔たりがある。今、日出の商店街を歩くと新しい建物が目立つ。

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竹林と杉林の中に建つ仏山寺(99/9/9)
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初秋の陽射しに映える仏山寺境内の石仏(99/9/9)
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老杉が立つ宇奈岐日女神社、後方は由布岳(99/9/9)


      竜峨山仏寺言い、わら屋根の小ぶりな山門が、かぼそげな四脚でもって立っている。絣の似合う
     幼な顔の美少女を見るようで、じつに姿がいい。

      「このお寺では奥さんが大変鐘を撞くことにご熱心で、里にいますと、朝、昼、晩の三度きこえ
     てきます」と、中谷氏はいった。

      となりの倉木山のふもとに、『延喜式』の古社である宇奈岐日女(うなきひめ)神社がある。森
     の中に石畳が敷かれ、社殿までつづいている。石畳の切石の敷きぐあいが、すぐれた抽象模様をな
     していて、須田さんが、それを踏んでゆくのが惜しいような表情で、胞かずながめていた。

      社殿へのぼりつけ、門をくぐると、社前が、百坪ほどの平地になっている。建物と樹にかこまれ
     て、なにもそこにないのっペらぼうの平地が、樹蔭で湿っぼく青寂びているせいか、盆地全体の奥
     座敷のようにも感じられた。

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     九州横断道路長者原と木道が敷かれた湿原(99/9/9)

       長者原は、九重山の登山口にあたる高原で、まことに草遠く、その野のはての山なみは雄大で、
      あるいはスイスのどこかの地方と似ているかもしれない。ただスイスと異なる点は、太古以来、
      ごく最近までこの野は人が住まず、農業も営まれることなく、人跡を断ってきたというところに
      ある。

       弥生式農耕のひとつ覚えで明治維新までやってきた日本人は、谷間や平地は拓いたが、こうい
      う高燥寒冷の高原は生産思考の範囲外にあり、どう利用していいかわからなかった。

       戦後、県が開拓団を入れた。
      「入植者は、何度も失敗しましてな」と、由布院でひろったタクシーの運転手が、いった。

       失敗の原因は冬の寒さということもあるが、道路事情もある。たとえばキャベツを作っても、
      馬車ではるばる町まで出荷するのは大変だった。なんとか持ちこたえた人々が、昭和三十九年十
      月三日の「別府阿蘇道路」の開通を迎えるのだが、ちょうどそのとき、あの日本人の経済観から
      倫理観まで、いわばあらゆる価値観を狂わせた土地ブームという変態の季節がはじまっていた。

         わたしは、大観峰から瀬の本高原に出て、牧の戸峠を越え長者原に至るあたりの
         風景が好きだ。特に、大観峰からの火口原と阿蘇5岳、長者原から見る九重連峰
         の眺めが素晴らしい。

         司馬さんは湯布院に宿泊し、県道11号線、いわゆるやまなみハイウエイを牧の
         戸まで行って湯布院へ引き返し、翌日、210号線を日田へ向かったようだ。し
         たがって、大観峰へは行っていない。

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     日田市咸宜園の門塀と秋風庵。内塾の発掘であろうか、庵の斜め前では土が掘り起こされていた。
     (99/8/25)

       江戸末期の日田が全国に有名であったのは、広瀬淡窓の塾である咸宜園あるによってであった。

       淡窓は、日田の富商の家にうまれ、年少のころ福岡で学んだだけで、そのあとは多病なために
      江戸などに留学せず、日田に帰って私塾をひらいた。二十四歳で開講して五十年教えつづけた。
      その間、入門簿によれば三千八十一人という多数の青年がこの塾で学んだ。それらの出身地は奥
      州のはしから対馬まで及び、六十余ヵ国のうちで隠岐国と下野国の二ヵ国が欠けているだけであ
      った。

       咸宜園は、往時は「外塾」と称する寄宿舎が三棟もあった。講義が行われる建物は「内塾」と
      いい、二棟あったといわれるから、相当な景観だったにちがいない。

       しかしいまは、淡窓の居宅だった「秋風庵」しか遺っていない。その建物のそばに、「史跡 
      咸宜園 日田市」というたてふだが立っており、建物はよく補修されていて、日本のわらぶき建
      築の一見本としても保存されていい価値をもっている。

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    小石原村鼓にある高取焼静山窯(99/8/25)


       道路の左手は、雑木の山の崖である。右手に渓流が流れている。浅いだけに光るように澄んで
      日田方角にむかってしきりに水を奔(はし)らせている。

       人里がしばらく絶えていたが、やがて左手の渓流に南画の画中にあるような橋がかかっていて
      その橋のむこうの叢林の中にただ一戸だけ農家が見え、それが南面している。


       原岡さんが、車をとめさせた。
      「ここです」と、さきに立って小橋を渡った。農家はわらやねで、二階だてであった。右手に、
      白壁の土蔵がある。


         高取焼の静山窯は、小石原村の中心部からかなり外れた南部にある。先祖の
         高取八山は朝鮮渡来のひと。静山は本名を静(しず)という婦人で、女名前
         だと作品を発表するときに具合が悪い、ということで下に山を付けたとのこ
         と。高取家11代目にあたる。

         今も静山窯と名乗っていることから、静山さんはご健在のようであった。