司馬遼太郎の風景

叡山の諸道

2010/5/21 PENTAX K-7・K10D
   

叡山には谷が多い。
その谷々に、叡山の学問と文化、信仰がちんでんして中世に発達し、こんにちまでその伝統が裾を曳いている。
この山で谷といえばもはや自然地理の呼吸を超え、山の学問の学部、学科をあらわすことばさえなっていたといっていい。
むかしから叡山では、「三塔十六谷」 といわれる。
中世の叡山の在り方は西洋風にみれば総合大学というべきものであったろう。
三塔(東塔、西塔、横川)が、三学部もしくは三大学閥とみていい。
その下に、谷という学科もしくは小学閥が、それぞれ付属していたし、いまもそうである。


司馬さんは2回にわたって比叡山をたずねている。1回目は1979年10月2日〜4日、2回目は10月30日〜31日であった。


午後4時すぎの延暦寺根本中堂付近。観光客でにぎわっていた参道も人影がなくひっそりしている。

   
坂本
道は北へゆく。叡山は、たえず左(西)にある。
地質学では叡山のような山なみを地塁とよぶようだが、なるほど南から北へながながと土塁のようにつづいている。
やがて車は山麓にむかって走りはじめた。そのまま坂になってゆく。大きな石鳥居が見えた。広さは十分広い。
この参道は平安期のどの文章だったかに、「作道(つくりみち)」とあったことをおぼえている。
日吉大社を大内裏に見たてれば、このみじかく広い道はさしずめ朱雀大路にあたるかと思われる。


外へ出ると「日吉そば」とある。何度みても姿のいい店である。
角であるだけに車までときに軒下に車輪をかけるのか、路上に大きな自然石が置かれていてそのふせぎにされている。
ところが、この「日吉そば」の横に「鶴喜そば」というマンガ入りの彩色の大看板があがっていて、われわれはそれを視覚に入れつつ、
つい鶴喜と信じて日吉そばに入ったらしい。
    

司馬さんが姿のいい店と書いている「日吉そば」

ほんとうはここでそばを食べるはずだった「本家鶴喜そば」


作道の歩道にある穴太築き(あのうづき)といわれる古い石積みは、坂本の町並みを風情のあるものにしている。

橋をわたって右へゆくうちに、豪壮な石垣があらわれる。代々の天大座主の住まいであった滋賀院である。
重苦しいほどの堅牢な門が石段の上にそびえ、仰ぐ者に威圧感をあたえる。
それにしても、滋賀院の石垣こそ穴太築きの傑作のひとつではないかと思える。

 

大宮川が、地を深く穿って境内に小さな渓谷をつくっている。
その上に架る御影石の石橋は、橋という以上に大がかりな石の構築物をおもわせた。
若い最澄が登って行ったころの道といえば、この石橋の下の小さな渓流によって想像するしかない。
 
日吉大社参道入り口。左手に進むと延暦寺への登り口で、根本中堂二十五丁の道標がたっている。

日吉神社境内の大宮川にかかる大宮橋。最澄の頃、この橋はなかった。木橋から現在の石橋に架けかえられたのは寛文9年(1669)。
   
■横川(よかわ)
三大師(がんざんだいし)の故地である横川は、老杉につつまれている。
南北に走る叡山の稜線から東へすこしくだったこの地形は、むろん谷底ではない。谷の傾斜の途中で棚のように平坦になった地形である。
小さな棚が、いくつもある。その小さな棚ごとにむかしは堂塔や僧房が営まれていた。いまはかぞえるほどしか残っていない。
    

横川中堂。まるで秋のように木の葉が赤い。

三大師堂。


横川中堂から元三大師堂への参道。杉木立の道には三十三か所石仏が安置されている。
   
■無動寺谷
無動寺谷は、古来、叡山の荒行である回峯行者が庵をむすんできた谷で、現在もそうである。
念を入れるようだが、回峯行者は他の谷に住まず、無動寺谷だけに住んでいる。
無動というのは不動というのと同義である。
この谷に不動明王を本尊とする無動寺があるのは、不動明王が大日如来に代って行者をまもるものとされてきたからである。
そういうことからいえば、無動寺谷は不動信仰の谷といっていい。


 
無動寺谷への入口はケーブル延暦寺駅のすぐ先にあり、無動寺参道という石柱と大弁才天女の鳥居が立っている。
ここから明王堂まで約1kmの山道を下る。横川、西塔、東塔を歩いた後だったので、帰りの1kmの坂道はかなりきつかった。
司馬さんは、無動寺バス停からここまで延暦寺が用意したジープでやって来て、ここから歩いた。
ちなみに、延暦寺駅は昭和2年(1927)の建造で、国指定登録文化財。

谷をなかば降りると、棚をつきだしたようにして小さな平地がある。
「無動寺谷」というこの谷の命名の源である明王堂が、一宇建っている。
堂は小ぶりで簡素ながら、構造が堅牢で、材もふとく、装飾意識などいっさいなく、力学だけで凝固させたような建物である。

明王院。ワラジがぶら下がっていた。

総本坊法曼院の屋根越しに大津の町と琵琶湖が霞んでいる。
    
崖のはしに石垣を組んでわずかな敷地をつくった僧房にたどりついた。
白木の建物で、
法曼院政所」と書かれた板が下げられていた。
「ここは叡山でいちばん不便なところです」と徳衍(とくえん)法師がいった。
法師によれば、一山すえての回峯行者の世話と管理をこの
法曼院がやっているという。政所とは、そういう意味でつけられた呼称かとおもわれる。



←高い石垣の上にたつ法曼院。


親鸞聖人修行の地・大乗院。
   
司馬さんは、比叡山の中核的な存在である西塔と東塔をたずねずに、なぜか北端の横川と南端の無動寺谷のみをたずねている。
実際は別のときにたずねたことがあるかもしれないが、「街道をゆく」の中では記述されていない。
    
■西塔

伝教大師御廟近くの浄土院から山王院への石段。   

釈迦堂。

左が常行堂、右が法華堂、両堂を合わせてにない堂とよばれていて、渡り廊下でつながっている。
       
■東塔

根本中堂の西側にある大講堂。

大講堂の近くにある鐘楼。

文殊楼。

文殊院から根本中堂を見る。
国宝の根本中堂は、寛永17年(1640)の建造で、最澄の時代から数えて8代目の建物になるという。


法華総持院の阿弥陀堂と東塔。