司馬遼太郎の風景 越前の諸道 越美北線、九頭竜湖、平泉寺(白山神社)、永平寺、一乗谷朝倉氏遺跡 |
かねがね越前の九頭竜川ぞいを上下してみたいとおもっていたが、この秋十月はじめ(昭和
五十五年)、須田画伯をさそって、念願を遂げることができた。
という書き出しで、「越前の諸道」ははじまる。大坂から列車で福井に降り、大野、勝山、武生など
をまわっている。わたしは、福井へは1991年に一度だけ行ったことがあるが、何ヶ所かで司馬遼太
郎さんと同じ風景を目にしていることになる。
この国道158号線のわきに、単線のレールが、寄りそうように走っている。
「越美北線」とよばれる国鉄の支線で、よほど閑散とした赤字線らしく、車輛が通っているのをついぞ見かけなかった。
地図によると、この寂しげなレールは大野盆地を経、山に入って九頭竜川の源流渓谷に沿いつつ通っている。
山中でいくつかのダムのそばを通ったり、荒島トンネルという山のおなかをくぐって、鷲鞍岳(一○一一メートル)を見つつ、その山脚を沈めている九頭竜湖駅という終着駅に
いたる。
越美北線は足羽川を何度か渡る(市波ー小和清水)
91/7/22 CanonT90/80-200mm
地図上で九頭竜湖までの道をたどった司馬さんは、九頭竜湖まで足をのばしたかったのではないだろうか。
日程の関係で実現しなかったのではないかと思う。司馬さんが九頭竜湖を見ていたら、どのように表現しただろうか。
国鉄時代には、越美北線に対して越美南線があった。
越前と美濃を、北と南から線路を延長して結ぶ計画であったが、越美南線は、第3セクター長良川鉄道となり、越前と美濃を結ぶ計画は実現しなかった。
越美北線の全長は、すべて越前の中にあるので、越美という名称は、今やふさわしくなくなった。
九頭竜湖の風紋 91/7/22
CanonT90/50mm
ゆるい勾配ながら、石段が組まれている。
石をできるだけ自然のまるさのまま畳んだ
石段で、両側を杉その他の木立が縁どってい
る。春の雨の日など、終日ここで雨見をして
いても倦きないのではないかと思われた。
「以前、ここを登ってゆきますと、左手に
白木の材をたくましく組みあげて、ごく古寂
た屋敷がありました」と、須田画伯に話した。
私の記憶のなかでは、鎌倉時代の武家の舘
というのはこうであったかという印象として
のこっている。
平泉寺白山神社は、養老年間(717-24)の
創建と伝えられている。
室町時代には、48社36堂、6000余
坊を数えたが、1572年の一向一揆の際に
全山が焼かれた。
明治の神仏分離令によって、白山神社だけ
が生き残った。
平泉寺(白山神社)参道 91/7/23 CanonT90/50mm
永平寺については、当初、割愛しようとおもっていた。
しかし、この朝、勝山の寝床のなかで考え、(やはり、永平寺に立ち寄ってみよう)と、思案を改めた。
この越前にあっては、なんといっても永平寺は巍然(ぎぜん)としてそびえる存在で、どうせ私どもは、平泉寺を出たあと、九頭竜川をくだってゆく。その途中に永平寺がある。
通りすぎて敬意を表さないということは、道元に対しても、道元につよい敬意をもつ須田画伯にも失礼ではないか、と思った。
司馬さんは、永平寺をたずねることに気乗りしなかったようである。なぜ、気乗りしなかったのか分からないが、観光客が多いのを好まなかったのかもしれない。
門前での人の多さに圧倒され、境内には入らなかったようである。
紀行の中には道元に関する記述はあるが、永平寺そのものについては書かれていない。
杉の樹林の中に立つ永平寺 91/7/21 CanonT90/50mm
一乗谷城の中心部が、いま遺跡公園になっていて、芝生の上で弁当を広げている人達もいた。
織田信長が焼き払って以来、このあたりは一空に帰した。私が十年前にここを過ぎたときも、一筋の未舗装の朝倉街道があったのみで、あとは山林と
田園しかなく、いかにも淋しいところだったような記憶がある。
昭和四十三年から本格的な調査や発掘がおこなわれ、その終了後、唐門一つ、それに多くの礎石などを中心に、芝生が植えられ、砂利が敷かれたりし
て、無料の遊覧の場がつくられた。
「特別史跡 一乗谷朝倉氏遺跡」という標柱が唐門のそばに立っている。
唐門が往時をしのばせる一乗谷朝倉氏遺跡
91/7/22 CanonT90/50mm
わたしは一乗谷で荒涼とした印象を受けたが、司馬さんが最初にたずねた1970頃は、
もっと荒涼としていたのではないだろうか。今は、道路も舗装され、建物も少し復元され
ているが、昔は、まさに廃墟であったにちがいない。
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