司馬遼太郎の風景

芸備の道

 吉田町の町並み・郡山城趾 ・猿掛城
 祝橋・岩脇古墳・粟屋・鳳源寺
 2003.5.21 CAMEDIA

安芸・芸備は、ひろい。

私は三泊四日の予定をたて、小さな町を二カ所だけ選ぼうと思い、地図でさがしてみた。

まず、安芸の吉田の盆地を選び、次いでその北方25キロにある備後三次(みよし)の盆地に行くことを考えた。

安芸の吉田という山間の小さな町は毛利勢力の興った地であり、また三次盆地は古墳時代、どういう理由で栄えたのか、広島県下でいままで発見された古墳約三千基のうち、約二千基がこの霧深い小天地にあるというふしぎな土地である。

司馬さんが芸備の道を旅したのは、1972年6月4日ー7日である。大阪から新幹線で広島へ。広島駅でタクシーをひろって国道54号線を北上した。旅のはじめは青空であったが、旅の終わりは梅雨に入ったらしく雨に降られた。



   


  
  吉田町歴史民俗資料館前の司馬遼太郎記念碑。
  「城趾の山から降りてくると、白橿の幹のむ
   こうに盆地がみえる、一歩ごと蛙の声が近
   づいてくる」

吉田町の町並み

安芸の吉田町は、はじめて見た。しかし、ながいあいだ想像してきた通りの町だった。

安芸吉田は江戸期以前の城下町だが、豊臣政権の末期に毛利氏がいまの広島市に近世的な沿海城郭を築き、新城下町を町割りして大挙(町人まで)それへ引っ越したために吉田は毛利氏にとって旧都になった。


吉田の三丁目商店街には、古い町並みが残っている。司馬さんは、その一角にある「いろは旅館」に宿泊した。

←左手の建物が「いろは旅館」


 

郡山城

安芸吉田の町へ入って早々、宿に入らず、そのまま通り過ぎて、町の北部に盛り上がっている郡山城跡に登ってみた。毛利元就の根拠地であったこの城山を、どこよりもまず知っておかないと吉田の町の中にいる実感がわきにくいと思ったのである。


←吉田町歴史民俗資料館にある郡山城の立体模型。
 司馬さんは、「自然の郡山を見るよりも、陳列ケ
 ースの中の郡山を見るほうがよくわかる」と書い
 ている




 

猿掛城

吉田の町は、西方の山地から多治比川という川が流れこんでいて、町中で可愛川(えのかわ)に合する。

その多治比川ぞいの古い街道を西へゆくと、いかにも清らかな集落がざっと一キロおきに点在している。

「あれが多治比の猿掛城です」と、一山を指さした。

山は後方の烏帽子山の北麓に隆起している岬のような高地で、その高地の前を多治比川が流れて、古城趾にとっては天然の外堀をなしている。



 

祝橋

司馬さんは、三次で祝橋近くにある「環水楼」という旅館に宿泊した。その旅館は現存したが、今は営業していなかった。

祝橋の土手に立って西を見ると、高い位置に、国民宿舎「三次長寿村」の白い建物が見える。岩脇古墳公園は国民宿舎の裏にある。





   

岩脇古墳

岩脇古墳の円墳は、三次の古墳の中でも、大きい部類に属する。

ここに埋没された主も、この三次盆地の一部をあらたに支配するようになった豪族かもしれない。

墳丘上から見下ろす三次盆地は、幾筋も川の流れが白銀色に光ってまことに気分の晴れるような景観である。

この時代の人々は、山に死後の世界を想定した。豪族たちは、自分がそこで暮らし、かつ支配した里を死後も見下ろせるような場所に墳墓を位置させた。

この墳丘から町を見下ろしていると、景観の大きさから見て、この墳墓の主は、一村や二村のちんぴら首長ではないように思えてくる。

粟屋

ライトバンの魚屋が車をとめていて、近所の主婦が二、三人集まっている。その主婦の一人に、丸山鉄穴場はどこですかときくと、

「あれです」と、線路の南側の丘を指さした。段畑が幾重かかさなっていて、そのむこうに平地の森ていどのひくい丘がある。


司馬さんは、粟屋駅近くのかつての砂鉄採掘場をたずねたが、今は樹木が密生した森の中だった。



   

鳳源寺 2003.4.8 CAMEDIA

石段をのぼって旧藩時代の墓所を見たりして境内に降りてくると、樹齢五百年も経たかとおもわれるしだれ桜がある。その根元に立札が立っていて、

赤穂浪士
大石良雄
手植えの
 枝垂桜
と、四行にわけて書かれていた。


横合いから庭園へ入ると、入口に赤っぽい水成岩の自然石が板碑のように立っており、「菩薩泉」と、雄渾稚拙な筆触で刻まれている。雄渾さはどこか、須田画伯の書に似ている。


庭園入口の左の板碑には「菩薩泉」、右の板碑には「愚極泉」と、刻まれていた。