司馬遼太郎の風景
2003

飛騨紀行

飛水峡・水無神社・松倉山・高山陣屋・飛騨古川・
数河高原・茂住
 03.5.13-15 CAMEDIA

飛騨は、旧国名である。

岐阜県の北半分の山地をさす。県の南半分の平野は河川がゆたかに流れ、日本史にさまざまな影響をあたえた美濃国である。

美濃国は穀倉地帯だから上代から米の税をとってきた。

山国の飛騨国から米の税をとることができないために、使役をもって税とした。その使役も、官がやる建築事業に限られていた。

つまりは、飛騨の匠とは、飛騨から徴用される木工の下級労働者の総称だったのである。

司馬さんが飛騨を旅したのは、1972年11月5日ー7日である。5日の午後、岐阜羽島駅からタクシーに乗り、国道41号線を高山本線沿いに北上し、その日は下呂温泉に宿泊した。翌6日、さらに北上して高山で1泊している。そして、翌7日、富山県に近い茂住というところでこの旅を終えている。

 
 宮村往還寺境内の枝垂桜。

飛水峡


飛騨川の名勝飛水峡を行く高山本線の特急列車。
路傍に名勝飛水峡がある。

岩も崖も白い。

急流が山脚の岩肌を縞模様に彫りきざんだ奇勝で、まわりの山々はことごとく紅と黄に染まっている。この日、十一月五日で、飛騨まで登ってしまえばもう紅葉は終っているだろうといわれていたのだが、下流の美濃飛水峡ではまださかりであることがうれしかった。

ただ暮れかけている。二十分もすれば、暗くなるのにちがいない。


国道41号線脇に、車が5台くらい止められる駐車スペースがあり、渓谷と高山本線の鉄橋が見える。司馬さんも、ここで飛水峡を見たのだろうか。



 

水無(みなし)神社


絵馬殿。

神馬堂。
ガラス格子で見にくいが、
左の黒い馬が左甚五郎の作。
車がまがりくねった道を徐行しつつ降りてゆくと、高原がひらけてきた。そのとっかかりに、飛騨一ノ宮水無神社がある。まだ高山へはすこし距離があるが、このお宮は市民にとって、重要な存在なのである。

境内に入ると、ここも飛騨らしく建物がいい。

本殿もよく、絵馬殿もいい。

境内の一隅に神馬堂のようなものが建っていて、外から格子戸ごしにのぞくと、古拙なばかりの木彫の神馬が納められている。作は左甚五郎とあり、それも少年ころの作だということだった。

小説『夜明け前』の青山半蔵のモデル、島崎藤村の父・島崎正樹は、明治7年、水無神社の宮司として赴任し、在住中、高山中教院で若者を指導したという。

松倉山


松倉城本丸跡の石垣。
約500年を経てもしっかりしている。

標高857mの山頂。
あいにくの天気で視界がきかなかった。
構造は山頂の本丸とそれより下の二ノ丸、さらに三ノ丸がり、出丸もあった。

城跡はよく保存されていて、しかも7合目くらいに、ささやかな駐車場までできている。そこで、降りた。あとは、徒歩で急坂をのぼる。

ようやく本丸である山頂にのぼりつめると、石塁がみごとにのこっていた。

松倉山の山頂から、山々の縁どられた飛騨一国をながめたとき、考えようによってはここは桃源郷というべきではないかとおもった。

高山陣屋


門から玄関を見る。

役宅の庭。
高山陣屋は江戸期の建築ながらよく修復されていて、若者の肉体を見るようにしっかりしている。その大きな門の前に立つと、意外に優美である。

玄関を上がって、さまざまな御用の間を見た。罪人のとりしらべをする御白洲も、よく保存されている。別棟の役宅なども、飛騨ふうの軽快な建物で、当時の幕府の重い権力を想像しないかぎり、気分のいい建築遺構だった。

飛騨古川


司馬さんに格子美の傑作と言わせた「白真弓」の造
り酒屋。
ともかくも古川町の町並みには、みごとなほど、気品と古格がある。

観光化されていないだけに、取り繕わぬ容儀や表情、あるいは人格をさえ感じさせるのである。

町としては古川が古く、高山はあとにできた。

古川にあっては、高山と同様、飛騨風の二階建てが多く、町屋も微妙に軽快で、かすかに重量美があり、これ以上の釣り合いを望めないくらいである。とくに階上・階下の格子戸が、間口の長さを美しさとしてみごとに演出している。

「蓬莱」とか、「白真弓」とかいった板看板の出ている造り酒屋の家などは、格子美の傑作かと思われる。

円光寺は、山門がふしぎな形をしている。

ごく小ぶりな門である。平面にわずかに勾配をあたえた簡素な瓦屋根の上に、楼をのせている、楼というより、小さく、かつ瀟洒な破風構造を装飾的にあしらったものである。

門のそばの立札の文章を読むと、破却された金森可重の城門の一つが移築されたという。





 

数河(すごう)高原


文中に出てくる数河高原のドライブイン。
このドライブインの看板を国道沿いのあちこちで
見かけた。


国道をはさんで斜め向かいにある山小屋風の店。
上が宿で、下が食事処。司馬さんがカレーライスを
食べたのはこの店ではないかと思う。
「ここです」と、川尻さんがいった。

なるほど、模造ワラ屋根の大きなドライヴ・インがある。正面にみやげものが盛りあげられ、奥は軽食堂になっているらしい。川尻さんがその建物に近づくべく車を寄せてゆくと、フロント・ガラスいっぱいに壮漢一人が立ちはだかり、
「だめだ、ここはだめです」
と、殺気立って言った。

追われて、私どもはこの平場を出、すこしはずれた土手の上にある山小屋ふうの店に入った。中年夫人が一人でやっている小店だった。

やがて地ひびきするようにして、大きなバスが店の前を通りすぎた。バスはむこうのドライブ・インをめざし、やがて駐車場に止まって、おおぜいの男女を吐き出した。

それらは高山市にちかごろできた宗教団体の本部詣りのバスだった。

まわりはふしぎな景観だった。県立と銘打った公園でありながら、いま出来のお稲荷さんの赤い鳥居とか、おやしろとか、コンクリート製のキツネとかが設けられている。さらには、「公園の一福神」という大標柱も立っている。七福神の一人である「寿老人」をまつったいま出来のやしろがある。

飛騨紀行で最も印象に残っているのが、この数河高原のくだりである。変貌しつつある日本に対する司馬さんの嘆きが、しずかに語られている。

司馬さんは、文中で「いま出来」という言葉を使っているが、客寄せの張りぼてのようなにわか作り、と理解した。

茂住(もずみ)

豊臣期から徳川初期にかけ、茂住を中心に鉱山をひらいた人物に、茂住宗貞という人物がいた。

茂住宗貞は約10年間鉱山の開発にあたり、今の茂住坑や和佐保坑など多くの鉱山開発に成功した。茂住宗貞は越前の人と言われ、はじめ糸屋彦次郎と言っていたが、金森氏に使えて姓を頂き、金森宗貞と改めた。宗貞の居館が茂住の金龍寺辺りにあったので、茂住宗貞と呼ばれていた。(神岡町役場HPより)

私どもは、神岡町から道を越中の方向にとった。弧の街道はずいぶん古い歴史をもっていて、いまも、
「越中東街道」
とよばれている。道は渓流に沿っている。川は神通川支流で、高原川という。

幸いむこうから自転車の乗った三十代の女性がやってきた。

「茂住宗貞の屋敷はどのへんでしょう」ときくと、道路の下の河原にある寺を指さし、「あの寺です」と、教えてくれた。

道路から降りてゆくと、美しい山門があって「金龍寺」という扁額がかかっていた。狭い境内に入ってみたが、ひと気がない。庫裡がある。庫裡に「白雲山」という山号がかかっていた。