司馬遼太郎の風景 肥薩のみち 田原坂、熊本城、球磨川、青井阿蘇神社、久七峠、曽木の滝、桜島
蒲生城磨崖梵字

      司馬遼太郎さんが、「肥薩のみち」を旅したのは、1972年3月22日から24日であった。


        肥後の国というまことに草原と火山と海を思わせる実感的な名称が、熊本県という
        官製の金気(かなけ)くさい行政区劃名称になっている。

        肥後に隣接する薩摩の国という名称も、名をきくだけでいかにも人文の歴史を感じ
        させるが、鹿児島県という官製名称では、明治式中央集権下の三等県にすぎなくな
        り、いかにも卑小で気の毒みたいである。

      という、肥後・薩摩に対する司馬さんの愛着を込めた書き出しで紀行ははじまる。熊本から八
      代へ、さらに球磨川沿いに人吉へ、肥薩国境を越えて、大口、川内、鹿児島へと旅している。

     
     西南戦争のときに銃弾を浴びた田原坂の大クス、樹齢250年。 07/5/23 *istD

      
われわれは田原坂に来てしまったのである。雨は降る降る人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂、
     というあの唄にある田原坂である。

     「史蹟・田原坂」という標柱のある場所に、天を覆うばかりに大きな樟がある。その樟が枝を張った
     南側は谷で、その谷のむこうに吉次越の嶮が霞み、三ノ岳がそびえ、熊ノ岳がかさなっている。いず
     れも西郷軍が長大な戦線を張った場所である。

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     城内のクスの木ごしに見る熊本城 94/1/2 F4s


      清正は熊本城を築いた。

      当時の築城工学からみればこの城の防御力は最高のものであったらしく、特に当時の用語で「はね出
     し」とよばれた石垣積みの工法では同時代のどの城も熊本城には及ばなかった。

      それほどに堅牢な要塞を清正に築かせたのは、豊臣政権の戦略的な必要からだった。薩摩の島津おさ
     えのためである。

      「肥後の熊本城」というのは薩摩人にとって単なる城ではなく、要するにその伝統意識のなかにあっ
     ては中央政権の象徴そのものであったということが、読者にわかってもらえればいい。

      西郷軍にとって、熊本城を攻めつぶすことが、戦略以前の自明の世界に属することであった。

hisatu-kumagawa.jpg (187628 バイト) 八代から球磨川をさかのぼる。

 道路はこの渓流の左岸の山を削ってつくられているが、いつのまにか右岸に変ったりする。

 球磨川という、九州第一のこの大河をさかのぼるのはむろん、実地にこの道をゆくのもいいが、地図の中の球磨川をみるだけでもこの川の人格のようなものに十分に接することができる。

 司馬さんは、旅に出る前に、地図を詳細に見るとのことである。地図を見てイメージをかきたて、現地でそれを確認する。

 わたしも地図をよく見る。しかし、現地へ行ってみると、イメージしたものとは違っていることが多い。

 司馬さんは、どうだっただろうか。
  急流、釣り人、急行くまがわ 88/7/31 NewF1

hisatu-aoijinjya.jpg (175205 バイト) 人吉の町でおどろいたのは、青井神社の桃山風の楼門だった。

 球磨川の北岸の道路を歩いていると、川にのぞんで石段があり、登ってゆくと豪宕(ごうとう)な楼門が立ちはだかっていた。

 寺だろうかと錯覚したが、しかし青井神社とあり、そういう目で地勢をながめてみると、上古、この里に棲んでいたひとびとの聖地だったようにも思える。

 かってはどういう結構の聖地だったかわからないが、この神社に壮麗な殿舎をあたえたのは豊臣期の相良氏である。

 この楼門を仰いで感動させられるのは、豊臣期という統一時代にはあるいは僻地というものが存在しなかったのではないかということである。

 「青井大明神」という額を高くかかげたこの楼門は、京都あたりに残っている桃山風の建造物(西本願寺の唐門など)などよりもさらに桃山ぶりのエッセンスを感じさせる華やぎと豪宕さをもっているの
である。

 司馬さんは、人吉に桃山風の楼門があることに驚き、青井阿蘇神社の楼門をべたほめしている。たしかに、素晴らしい楼門である。

  
正月の準備が整った青井阿蘇神社にて
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 やがて眼下の谷に杉のこずえを見おろすようになって、天がひらけ、あたりが広くなった。遠山が道路とおなじ高さにかさなっているあたりが、久七峠であった。

 路傍に、石造の碑のようなものがあった。

 車から降りて近づいてみると、碑というには構造が複雑で、ヨーロッパの国境標のような姿をしていた。目をさらに近づけてみると、「県境」という文字が深く刻まれている。その中心碑に両袖が出ていて、向かって左が「熊本県」とあり、むかって右が「鹿児島県」とあった。

 

久七峠は国道267号にある。2004年にトンネルが開通した。旧道を走ってみるとカーブが多くて走りにくかった。今は旧道を通る車はほとんどないようで、かなり荒れた感じだった。この県境碑も人の目に触れることが少なくなり、忘れ去られようとしている。09/7/9 K10D


hisatu-soginotaki.jpg (187149 バイト) これだけの滝が世間にあまり知られていないということもいかにも薩摩の国らしくておもしろい。

 1972年当時は観光情報が少なく、曽木の滝は知名度が低かったかもしれないが、今や、その知名度は高い。

 瀑布は壮観であった。これだけの景観を、新建材の食堂や拡声器でこわしてしまうのが惜しいような気もするが、しかし明治政府以来の体質でもって、国土や風土を大事にするという理想をわれわれが一度ももったことがなく、いまさら大久保と海舟の話を思いだしたりしても追っつかぬといったふうの絶望の思いもある。

 司馬さんが指摘したことは、今もあまり変わっていない。文化遺産を、周辺環境を含めた景観全体として保持しなければならないと思う。

 事実、曽木の滝付近に道路橋が設けられ、景観を台無しにしてしまった。

  東洋のナイヤガラ・曽木の滝 98/7/4 Z5p

hisatu-sakurajima.jpg (102674 バイト) 蒲生郷へゆくべく錦江湾ぞいの海岸道路を北へ走った。

 鹿児島県の小学生の絵画能力の水準が高いという話は以前からきいていた。たいていのコンクールで全国で一位をとるという。その理由は太陽の満ちあふれた自然環境にあるであろう。

 この日は晴れていなかった。しかし空は複雑な模様を呈していた。たとえば右手の桜島の上には真黒な雲が垂れこめているくせに、暗い赫(あか)色の頂上あたりからときどき明色の白煙が噴きあがって、天の色調をいっそう複雑にしていた。


  夏の桜島 98/7/4 Z5p

「あの山(竜ヶ城)にはビルほどの大きな岩の断崖がありまして、そこにいつの時代に誰が彫ったともわからぬ梵字が千六百個ほど残っています」という地元の同行者の話に誘われて、司馬さんは「蒲生城(竜ヶ城)磨崖梵字」をたずねる。09/8/27 K-7

  山の中腹にたどりついた。そこから上は灰色の岩である。
  その切り立った平面の岩肌に無数の梵字がきざまれていた。この切り立った岩の高さ二〇メートルほどの頂上のあたりに蔦が這い、幅はざっと二〇〇メートルほどもあるという。


参照→磨崖仏の魅力/磨崖一千梵字